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光触寺


山門

バス停十二所下車 徒歩2分
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山門
山門

 落ち着いた雰囲気のある、光触寺(こうそくじ)の山門です。きらびやかでもなく、かといって寂れてもいない、静かな雰囲気が魅力的です。
 山号は岩蔵山(がんぞうさん)と言い、かつては十二所道場と呼ばれていました。もとは真言宗でしたが、1279年(弘安2年)に一遍上人に帰依した作阿上人(さくあじょうにん)が開山し、時宗に改めました。
 鎌倉三十三観音霊場の第七番札所です。また、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第五番札所になっています。
 本尊は阿弥陀三尊で、頬焼阿弥陀(ほおやきあみだ)とも呼ばれています。鎌倉時代前期の力強く写実的な、運慶様式を伝える仏像です。国の重要文化財に指定されています。脇侍の観音菩薩は蓮台をもち、安阿弥作。勢至菩薩は合唱していて、湛慶作です。本尊が収められている宮殿厨子は鎌倉公方足利持氏の奉納と言われ、江戸時代に華麗なものに改修されています。
 平安時代後期の定朝作の聖観音、大慈寺にあった仏頭、室町時代の古絵図、古版木類が安置されています。
 寺宝の頬焼阿弥陀縁起は、鎌倉時代の稀少な水墨画の絵巻物のひとつです。国の重要文化財に指定され、鎌倉国宝館に寄託されています。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・鎌倉国宝館

写真撮影:2009年02月17日

山門

バス停十二所下車 徒歩2分
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山門
山門

 お寺の門って書くと、ダチョウ倶楽部の寺門ジモンみたいなので、光触寺の山門と書いておきましょう。落ち着いた雰囲気がとても良かったので、さらにもう一枚、写真を撮りました。
 寺院の本堂へ入るために通らなければいけない門を空(くう)・無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)に例えて、三門と言います。日本最古の三門は、東福寺になります。禅宗や浄土宗の寺院では、普通に見られる門です。
 寺院には山号があることから、三門が山門と呼ばれるようになりました。
 門の形から分類すると、四脚門(しきゃくもん)、八脚門(はっきゃくもん)、楼門(ろうもん)、二重門(にじゅうもん)などに分類できます。

写真撮影:2009年02月17日

光触寺

バス停十二所下車 徒歩2分
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光触寺
光触寺

 頬焼阿弥陀や、札所の石碑が建てられています。
 12世紀の中ごろ、京都から有名な仏師運慶(うんけい)が鎌倉に招かれ、町局(まちのつぼね)という人から48日で阿弥陀像を作るように依頼を受けました。運慶は苦心の末、48日間で立派な阿弥陀像を造り、町局はとても喜び、持仏堂に安置し、香を焚き、花を供え、念仏を怠りませんでした。
 町局の家には信心深い万才法師(まんざいほうし)という坊さんが仕えていました。家の物がなくなり、以前にも同様のことがあったため、万才法師のせいにして牢屋へ入れてしまいました。町局は急用で渋谷に出掛け、留守中に家人は言い付け通り、法師を縛って馬具のくつわ一部の承つき(みずつき)を焼いて、左の頬に焼印を押し付けました。しかし焼き跡が付かず、町局が帰ってきたら言い付け通りにやってないと言われ怒られるだろうと思い、もう一度やってみましたが焼き跡はつきませんでした。
 翌日の夜、町局の夢の中に阿弥陀が現れ、「なぜ私の顔に焼印を押すのじゃー!」と言って涙を流していました。
 町局は慌てて本尊を見ると、頬に焼け跡があり、身代わりになったのだと悟りました。そして後悔し、万才法師の罪を許しました。
 その後、亀ヶ谷から仏師を招いて頬の焼け跡の修理をさせましたが、何度やっても治りませんでした。ついに諦めて、のちの世の人々に見せるため、修理しないことにしました。町局は出家して、比企ヶ谷に岩蔵寺を建て、この阿弥陀を本尊としました。「かなやき仏」と呼ばれていたそうです。73歳で、阿弥陀に手を合わせて念仏を唱えながら亡くなりました。
 万才法師は大磯に庵を作って、さらに信心を深めて念仏を唱え、「南無阿弥陀仏」の6文字を書いて売り、大往生を遂げたと言われています。

写真撮影:2009年02月17日

本堂

バス停十二所下車 徒歩2分
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本堂
本堂

 本堂の写真、考えながら写真を撮ってみたのですが、どうでしょうか?
 ウメの花を入れて、本堂の写真を撮ってみました。いつもだったら、他の物が映りこまないように本堂だけを撮っているんだけど、他に何か入れた方が綺麗に撮れるんじゃないかなーって思って。自分では良く撮れたと思っています。
 ウメじゃなくて、モモだったかな?
 本堂は江戸時代、1703年(元禄16年)に再建された建物です。鎌倉以外だったら、江戸時代の寺院は貴重な建築物です。後醍醐天皇が書いたと言われる光触寺の勅額が掲げられ、本堂内陣の装飾は見事です。

写真撮影:2009年02月17日

塩嘗地蔵

バス停十二所下車 徒歩2分
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塩嘗地蔵
塩嘗地蔵

 地蔵堂に祀られている地蔵で、手前の小さな6体の地蔵は、六地蔵です。奥に座っているのが塩嘗地蔵で、もとは朝比奈切通から鎌倉に至る街道沿いに座っていました。
三浦半島観光地図:鎌倉市十二所・朝比奈切通
 鎌倉時代〜室町時代、地蔵信仰が盛んな時期でした。六浦の塩売りが鎌倉に入る時、初穂(はつほ)として塩を地蔵に供えました。鎌倉から帰る時には、供えた塩がなくなっているので、地蔵が舐めたのだと考え、塩嘗地蔵と呼ばれるようになりました。
 また、初穂を供えた後は、隣の高砂屋という茶店で焚き火に当たり、茶をご馳走になりました。帰りにお茶代として、塩を湯呑みに一杯の塩を置いていったそうです。
 このことからも、金沢方面から鎌倉に塩が運ばれていたことがわかります。

写真撮影:2009年02月17日

一遍上人

バス停十二所下車 徒歩2分
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一遍上人
一遍上人

 猫背のおじさん。
 でも、ただのおじさんではありません!時宗の宗祖一遍上人です。藤沢市鵠沼海岸に住んでいる、久保田アサ子さんによって寄進されました。
 教科書では、時宗は鎌倉新仏教なんて紹介されたりもしますが、ちょっと変わった宗派のひとつです。一遍上人も新しい宗派を作ろうと言う意思はなく、時衆と呼ばれる集団でした。しかも、一遍亡き後、自然消滅しています。
 鎌倉時代後期、門徒によって再結成されました。時代を経るごとに門徒は少なくなっていきましたが、江戸時代に時宗となりました。明治時代の廃仏毀釈によってさらに衰退しました。時宗の寺院はそれほど多くはなく、神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称・遊行寺)が本山となっています。盆踊りは、時宗の踊り念仏が起源だとも言われています。
神奈川県観光地図:藤沢市西富・遊行寺

写真撮影:2009年02月17日

日本庭園

バス停十二所下車 徒歩2分
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日本庭園
日本庭園

 光触寺の境内も、落ち着いた雰囲気でいいところですね。広い境内ではないのですが、のんびりとすごしていたい雰囲気が漂っています。
 庭園の水面もとても静かでした。空の青が映りこんでいて、とても綺麗な庭園でした。奥に菖蒲園があります。季節の花を楽しめるお寺です。和風庭園の奥には入れないので、外側から眺める程度なら見ることができます。
 英語の案内板があったので、意味は良くわかんないんだけど、いちよ書いときます。以前は自分で勝手に英訳したりしていたんだけど、思っていた以上に英語力がないので諦めました(^^ゞ
 KOSOKU-JI TEMOLE
 This temple was founded by Saint Ippen(1239-1289) and is dedicated to Amida Sanzon.
 This image has been designated as an Important Asset Another treasure is the Amida Engi.
 The Shioname Jizo which is enshrined in the Jizo-do, had once been along the roadside of the Kanazawa highway.
 Salt peddlers made cfferings of their wares to it, hence the name Shioname(salt tasting) jizo(guardian diety of children).

写真撮影:2009年02月17日
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