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瑞泉寺


瑞泉寺

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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瑞泉寺
瑞泉寺

 瑞泉寺の手前に建っている石碑です。瑞泉寺に行く途中、こういった石碑がいくつか建てられています。瑞泉寺を案内する石碑のひとつです。
 この石碑には、「関東十刹第二、錦屏山瑞泉寺」って書いてありました。関東十刹は、「かんとうじゅっさつ」って読んでもいいのですが、できれば「かんとうじっさつ」って読んでくれると嬉しいです。
 関東十刹は室町時代に定められた、臨済宗のお寺の格のことで、鎌倉五山に次ぐ位置づけになっていました。当初は関東から、浄妙寺、禅興寺、東勝寺、万寿寺、長楽寺の5寺院が選ばれました。
三浦半島観光地図:鎌倉市浄明寺・浄明寺
三浦半島観光地図:鎌倉市小町・東勝寺跡
三浦半島観光地図:鎌倉市大町・安養院(長楽寺)
 その後、寺の数や順位は何度も変更され、京都中心の物となったので、京都とは別に関東だけの十刹が作られました。
 瑞泉寺、禅興寺、東勝寺、万寿寺、長楽寺、国清寺、大慶寺、円福寺、善福寺、東光寺の10寺院です。このうち、瑞泉寺、禅興寺、東勝寺、万寿寺、大慶寺、東光寺の6寺院は現在の鎌倉市内にありました。
 瑞泉寺がある谷は、紅葉ガ谷(もみじがやつ)っていいます。三方に山をめぐらして、紅葉の美しい場所だったので、山号は錦屏山(きんぺいざん)っていいます。

写真撮影:2009年02月17日

瑞泉寺

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
瑞泉寺
瑞泉寺

 瑞泉寺に辿り着く前に、いくつか建てられている石碑のひとつ。こういった石碑を見ていると、もうすぐ瑞泉寺まで到着するんだなーって期待にワクワクしてきます。
 この石碑には、「夢窓国師古道場」って書いてありました。夢窓国師は瑞泉寺の開山で、庭園造りの有名人です。
 開山が夢窓国師(むそうこくし)です。夢窓疎石(むそうそせき)とも言いますが、同一人物です。1327年(嘉暦2年)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)が瑞泉院を建てました。
 南北朝時代になると、最初の鎌倉公方になった足利基氏(あしかがもとうじ)が夢窓国師に帰依し、瑞泉寺と改め、1350年(貞和6年)に亡くなり瑞泉寺に葬られました。以後、鎌倉公方代々の菩提寺として栄え、鎌倉五山に次ぐ関東十刹に名を連ねました。塔頭(たっちゅう)は十余を数え、義同周信(ぎどうしゅうしん)のような高僧も住職になって、五山文学の中心となりました。
 足利基氏、足利満氏、足利持氏ら、歴代鎌倉公方のお墓があります。
 その後、衰えた時期もありましたが、江戸時代には円覚寺から住職が入って再興されました。徳川光圀(水戸黄門)が『新編鎌倉志』を編纂させたのが、瑞泉寺になります。

写真撮影:2009年02月17日

総門

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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総門
総門

 瑞泉寺の手前に建つ総門です。この門の正式名称が本当に総門と言うのかどうか、わからないのですが・・・。南門かな?
 大きな寺院になるとたくさんの門がありますが、総門は一番外側にある門のことを言います。神社だと、たくさん並んでいる鳥居の一番外側って感じのイメージで。
 この総門をくぐっても、瑞泉寺まではだいぶ距離があります。こんなところに建っているということは、かつての瑞泉寺の境内はかなり広かったんだなーというのが想像できます。今でも十分広いけどね。
 迂回してねって看板が置いてあったので、その通りに迂回したんだけど。みんな真ん中を普通に通り抜けていたよ。自動車だけ迂回ってことなのかな?

写真撮影:2009年02月17日

参道

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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参道
参道

 瑞泉寺の料金所では、大人は200円、小中学生は100円です。私はオッサンなので、料金は200円です。どんなにごまかしても、子供料金では通れそうにないです。障害者は無料なので、障害者のふりをすればなんとかなるかもしれませんが、たぶん障害者手帳が必要なんだと思います。
 こうした細い階段が、かなり長い距離で続いています。瑞泉寺の本堂は山の上の方にあるので、頑張って登らなくてはいけません。疲れるよぉー(T_T)

写真撮影:2009年02月17日

参道

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
参道
参道

 鎌倉石で作られた参道もあります。階段の段差もバラバラだし、左右で高さも違っているので、かなり歩きづらいです。しかもちょっと滑ります。気を付けて歩かないと、転んだりして怪我をしてしまうかもしれません。
 でも、この階段を通らなくても大丈夫です。通れないんだったっけ?

写真撮影:2009年02月17日

山門

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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山門
山門

 本堂に入るために通る門のことを、山門、または三門って言います。
 山門は、寺院には必ず山号を持っていることに由来します。三門は、空、夢相、無作の三門のことを、三解脱門っていい、その略です。
 山門の扁額には「瑞泉蘭若」って書いてあります。「ずいせんらんにゃ」って読みますが、ネコ語ではありませんよ。

写真撮影:2009年02月17日

本堂

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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本堂
本堂

 異国情緒あふれる本堂です。和風な感じの本堂ではないのが、特徴的ですね。円覚寺舎利殿のような、唐風の方形造の本堂です。
三浦半島観光地図:鎌倉市山ノ内・円覚寺
 本堂の右側には客殿や庫裏などの建物、左側には開山堂、そのさらに奥には「どこも苦地蔵堂」があります。
 客殿は横浜市の金蔵院から、1963年(昭和38年)に移築したものです。横浜市には神奈川区と金沢区に金蔵院があるため、どちらから移築されたものなのかは不明です。江戸初期に建てられたものかな?
 開山堂は、1913年(大正2年)に修復されたものです。夢窓疎石座像が安置され、椅子に寄った像で、高さ約1m、両手を膝の上に重ね、静かに正面を正視しています。室町時代の作と言われています。

写真撮影:2009年02月17日

瑞泉寺

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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瑞泉寺
瑞泉寺

 お寺の本当内部って、金色をした飾りなどがたくさんあって、とてもきらびやかになっているのですが。瑞泉寺の本堂は、大きな寺院なのにわりと簡素ですね。正面に釈迦如来像、向かって左側に千手観音像、向かって右側に夢窓疎石像が祀られていました。
 本堂には釈迦如来像、徳川光圀が寄進した千手観音像、夢窓疎石像などが祀られています。
 夢窓疎石は後醍醐天皇や足利尊氏に重用され、足利基氏の政治顧問でもありました。
 公開はされていませんが、夢窓国師座像(国重文)は、南北朝時代の頂相彫刻(ちんそうちょうこく)の傑作です。竹斎読書図、近世初期に描かれた西湖図六曲屏風、夢窓国師の画像・法衣・墨蹟・書状などが寺宝として残っています。

写真撮影:2009年02月17日

どこもく地蔵

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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どこもく地蔵
どこもく地蔵

 「どこもく地蔵」、または「どこも苦地蔵」って言います。
 地蔵堂の前にとってもキュートなネコがいたので、みなさんネコに癒されていました。ここに集まっている人はみんな、お地蔵さんを見ているのではなくて、ネコを見ています(^^ゞ

写真撮影:2009年02月17日

どこもく地蔵

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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どこもく地蔵
どこもく地蔵

 地蔵堂内をこっそりと撮影。お地蔵様のお顔は、拝見できませんでした。きっと、わざと見えないように作ってあるんだと思います。お地蔵様の前に座れば、お顔を拝見できるようにしてあるんだと思います。
 どこもく地蔵の木造地蔵菩薩立像は、鎌倉時代後期の作です。
 それにしても、堂内にまで千社札がたくさん貼られているので、ビックリしましたー。千社札を見るのは好きなんですが、外に貼って欲しいなー。外に貼ってあると良い雰囲気を感じさせますが、中に貼ってあるのはいただけませんねー。
 昔は扇ガ谷にありました。地蔵を守っていた僧が貧乏生活に耐えかねて、逃げ出すことを考えていました。するとある日の晩、夢の中で地蔵が「どこも、どこも」と言っていました。
 このことを八幡宮寺正覚院の僧侶に話して真意を聞いてみたところ、「苦しいのはどこも同じ。ひとつところで辛抱ができなければ逃げるだけの人生ということだ」と教えられました。心を改めた僧は、ずっと地蔵を守り続けたそうです。
 地蔵が「どこも、どこも」と言ったら、今だったらケータイのドコモになりますね。ドコモのケータイはどこにいったって感じで、探している光景を連想してしまいます。

写真撮影:2009年02月17日

錦屏晩鐘

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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錦屏晩鐘
錦屏晩鐘

 梵鐘を見ると、突いてみたくなるんですが・・・。できないんですよねー。勇気がないとかじゃなくて、勝手に鐘を突くのは良くないんです、たぶん。
 鐘楼の奥に、お椀を伏せたような形をした塚があります。そこに石仏があり、タヌキが袈裟を着ためずらしい石仏があります。この塚は、「むじな塚」と呼ばれ、伝説が残っています。
 おじいさんとおばあさんが、瑞泉寺の留守番をしていました。下の寺のおじいさんは夜になると、瑞泉寺のおじいさんの家に来て、食事をご馳走になったりしていました。
 その日の晩も、瑞泉寺のおじいさんの家の戸を叩く音がしたので戸を開けてみたところ、下の寺のおじいさんが立っていました。瑞泉寺おじいは、家の中に入れて火に当たらせました。下の寺のおじいはついつい居眠りをしてしまい、火の前で化けの皮がはがれてしまいました。下の寺のおじいの正体は、タヌキ(むじな)だったのです。驚いた瑞泉寺おじいは、タヌキのおなかを火箸で突いて殺してしまいました。
 殺されたタヌキは、毎晩のように下の寺のおじいに化けて、食事をご馳走になっていた悪いタヌキです。しかし、死んでしまったからかわいそうなので、瑞泉寺おじいはタヌキのお墓を作ってあげました。それが、現在のむじな塚です。

写真撮影:2009年02月17日

石塔たち

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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石塔たち
石塔たち

 たくさんの石塔たち。由来は・・・、調べてみたけど良くわかりませんでした。梵鐘に関係した石塔みたいです。石塔のひとつには、「錦屏晩鐘」って書いてありました。
 この石塔群が、「むじな塚」だったような記憶があるのですが・・・。忘れちゃった(^^ゞ。とりあえず、むじな塚は鐘楼の近くにあります。テキトーな観光案内だ(^^ゞ
 偏界一覧亭の峰続きで、瑞泉寺の北側にそびえる山が、天台山です。中国の天台山に例えられ、当時は京都の比叡山と相対して鎌倉幕府の鬼門として考えられてきた山です。
 こうした山々や、瑞泉寺の庭園を眺め、夢窓漱石は歌を作っています。
 「まえもまた 重なる山の 庵にて 梢に続く 庭の白雪」

写真撮影:2009年02月17日

吉田松陰留跡碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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吉田松陰留跡碑
吉田松陰留跡碑

 なぜ鎌倉に吉田松陰が!?
 吉田松陰は、1830年9月20日(文政13年8月4日)〜1859年11月21日(安政6年10月27日)の長州藩士です。幕末を代表する思想家でもあります。
 1929年(昭和4年)、徳富蘇峰(とくとみそほう)の書で、「山の青々とした竹の光が窓から差し込んでくる。方丈は奥深く、錦屏山は懐に抱かれて物静かである。今私は囚われの身となって獄中にあり、むなしく苦しみを味わっている。ある夜、夢に瑞泉寺を訪ねた。」という意味の吉田松陰の漢詩が刻まれています。
 1853年(嘉永6年)6月、黒船4隻が浦賀に来航しました。吉田松陰は、黒船に乗り込んで海外に渡ろうと試みています。
三浦半島観光地図:横須賀市久里浜・ペリー記念館
 その時の瑞泉寺の住職が、松陰の伯父にあたる人で、竹院和尚(ちくいんおしょう)といいました。勝因は竹院和尚のいる瑞泉寺を4回ほど訪れています。松陰の黒船乗船計画は失敗に終わり、長州藩の野山獄に捕らわれの身となりました。その時、瑞泉寺を思う漢詩を残しました。

写真撮影:2009年02月17日

庚申塔

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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庚申塔
庚申塔

 瑞泉寺境内で見付けた庚申塔です。瑞泉寺境内には、この写真の庚申塔が1基だけしかないみたいです。
 1723年(享保8年)に建てられた庚申塔です。

写真撮影:2009年02月17日

偏界一覧亭復興碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
偏界一覧亭復興碑
偏界一覧亭復興碑

 偏界一覧亭復興碑です。瑞泉寺に来るまでに、かなり坂道と階段を上らないけないのですが。そのさらに上の方に、復興された偏界一覧亭があるらしいです。どこにあるのか、確認できませんでしたが、入れないらしいです。かつては天園ハイキングコースに組み込まれていましたが、現在は通ることができません。
 編界一覧亭は、1328年(嘉暦3年)、夢窓国師55歳の時の草創で、五山文学発祥の地と言われています。
 庭園の後ろの山に十八曲の急坂を造り、山頂に偏界一覧亭を建てました。鎌倉五山の僧が集まっては、詩会を開いていた場所です。翼を広げたような建物でしたが、室町時代中期には失われています。
 建長寺の清拙正澄(せいせつせいちょう)の『偏界一覧亭記』によれば、偏界一覧亭の名前の由来は「十虚無間が偏、心の至極する所が界、途を殊にし同じく帰すことが一、境と神とを会するのが覧」なんだとか。現在の展望台のようなものではなかったらしいのですが、偏界は世界や全てを意味するので、偏界を一覧できる場所なら展望台のようなものだったんだと思います。
三浦半島観光地図:鎌倉市山ノ内・建長寺
 のちに徳川光圀が失われた偏界一覧亭を再建し、そのかたわらに寮を設け、一覧亭詩板をかけたと言われています。富士山や箱根はもちろんのこと、鎌倉の連山が一望に見渡せ、視界の広さは鎌倉一と言われています。しかしこれも、大正時代の関東大震災で倒壊してしまいました。
 現在のものは、1935年(昭和10年)に再建されたものです。

写真撮影:2009年02月17日

安国利生塔

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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安国利生塔
安国利生塔

 意外な場所に、意外なものがありました。安国利生塔です。この安国利生塔が当時の物か、はっきりと確認しなかったのでわかりません。
 安国寺(あんこくじ)と利生塔(りしょうとう)、2つで1つバリューセットです。南北朝時代に足利尊氏、足利直義の兄弟が、北海道と沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔です。
 臨済宗の夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てました。
 鎌倉では相模の国として、相模安国寺が山ノ内に建てられましたが、現在は廃寺となっています。安国寺跡の石碑なども残っていません。大町にある安国論寺は、名前は似ていますが別の寺院になります。

写真撮影:2009年02月17日

お地蔵さま

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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お地蔵さま
お地蔵さま

 お地蔵さまから聞いたのですが、瑞泉寺が一番綺麗なのは、紅葉の時期だそうです。
 私が訪れたのは、完全な真冬。まだ2月の寒い時期。綺麗な庭園が特徴のある瑞泉寺でも、ちょうど何もない時期だったんですよー。スイセンはたくさん咲いていたのですが。
 本堂周辺だけじゃなくて、本堂に向かう参道や山門の周り、紅葉が綺麗なんじゃないかなーって思いました。
 瑞泉寺の花の見どころは、早春のウメ、鎌倉市天然記念物のオウバイ、キキョウ、紅葉、スイセンです。花の寺としても知られています。
 瑞泉寺の見どころは、なんといっても庭園です。
三浦半島観光地図:鎌倉市二階堂・瑞泉寺庭園
 と、お地蔵さまが申しておりました。

写真撮影:2009年02月17日

山崎方代文学碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
山崎方代文学碑
山崎方代文学碑

 瑞泉寺にゆかりのある文人には、評論家の大宅壮一、小説家の大佛次郎、小説家の梶山季之、小説家の川端康成、小説家の久保田万太郎、小説家の久米正雄、俳人の高浜虚子、小説家の立原正秋、小説家の永井龍男、歌人の山崎方代、歌人の吉野秀雄などがいます。
 そのうち、私の名前も刻まれるはずです・・・(^^ゞ
 文学碑の碑文は「手の平に 豆腐をのせて いそいそと いつもの角を 曲りて帰る」って刻まれています。歌碑になりますね。
 山崎方代は歌人で、1914年(大正3年)11月1日に山梨県東八代郡右左口村(現在の甲府市右左口町)に生まれました。晩年は鎌倉で過ごし、1985年(昭和60年)8月19日に肺がんによる心不全で71歳で亡くなりました。
 太平洋戦争で右眼を失明し、左眼の視力もわずかになってしまいます。傷痍軍人として、街頭で靴の修理などをしながら各地を点々としました。そのため、「漂泊の歌人」とも呼ばれています。

写真撮影:2009年02月17日

吉野秀雄文学碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
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吉野秀雄文学碑
吉野秀雄文学碑

 瑞泉寺には本当にたくさんの文学碑がありますね。それだけ、文人に好まれた寺院だったのでしょう。
 碑文には「死をいとひ 生をもおそれ 人間の ゆれ定まらぬ こころ知るのみ」の短歌が刻まれています。1968年(昭和43年)に建立された歌碑です。
 吉野秀雄は、1902年(明治35年)7月3日に群馬県高崎市で生まれました。1967年(昭和42年)7月13日、鎌倉市小町で亡くなりました。
 とても病気がちだった人で、人生の多くは伏せっていました。療養生活のため、七里ケ浜の鈴木療養所(現在の鈴木病院)、鎌倉市長谷の光則寺の借家に居住していました。近代日本の歌人、書家、文人墨客で、病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠みました。
三浦半島観光地図:鎌倉市腰越・鈴木病院
三浦半島観光地図:鎌倉市長谷・光則寺
 瑞泉寺境内にお墓があります。毎年7月、瑞泉寺で「艸心忌」が開かれます。

写真撮影:2009年02月17日

久保田万太郎文学碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
久保田万太郎文学碑
久保田万太郎文学碑

 瑞泉寺境内にたくさん建っている文学碑のひとつ、大久保万太郎文学碑です。
 碑文はかなり読みづらいのですが、「いつぬれし 松の根方ぞ 春しぐれ」って書いてあります。1979年(昭和54年)に建立された句碑です。
 久保田万太郎は1889年(明治22年)11月7日に浅草で生まれ、1963年(昭和38年)5月6日になくなりました。大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家です。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使し、滅びゆく下町の人情を描きました。俳人としては岡本松浜、松根東洋城に師事し、戦後に俳誌「春燈」を主宰して文人俳句の代表作家として知られています。
 1945年(昭和20年)〜1955年(昭和30年)、鎌倉の材木座に住んでいました。鎌倉文学館に展示があります。
三浦半島観光地図:鎌倉市長谷・鎌倉文学館

写真撮影:2009年02月17日

大宅壮一文学碑

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
大宅壮一文学碑
大宅壮一文学碑

 瑞泉寺は多くの文人が訪れた場所で、数多くの文学作品が造られています。それに由来して、多くの文学碑が建てられています。
  大宅壮一文学碑には、「男の顔は履歴書である」と書かれてあります。1971年(昭和46年)に建立された評論碑です。
 大宅壮一(おおやそういち)は、1900年(明治33年)9月13日〜1970年(昭和45年)11月22日の人物です。私が生まれた時には、すでにお亡くなりになっていたので、あまり詳しいことは知りませんが、有名な人です。「男の顔は履歴書である」の言葉は、私でも知っていました。ジャーナリストで、ノンフィクション作家です。毒舌の社会評論家としても有名でした。
 なんで、象の像が置かれているのかは、良くわかりません。生前、象が好きだったのかな?
 東京都世田谷区八幡山に、大宅壮一文庫があります。大量の蔵書の閲覧ができる図書館です。
東京都観光地図:東京都世田谷区八幡山・大宅壮一文庫

写真撮影:2009年02月17日

案内図

バス停泉大塔宮下車 徒歩13分
地図
案内図
案内図

 瑞泉寺境内の案内図。案内看板の写真ですが、とても綺麗な絵だったので写真を獲っておきました。
 英語の説明看板も出ていたので、書いておきます。きっと需要はないと思うのですが・・・
 Zuisenji Temple.
 As the family temple of the head of the representatives of Kanto region of the Muromachi Shogunate, this temple is one of the 10 most important temples in the Kanto region, second only to the Kamakura's five principle temples of Zen sect.
 The temple's honorary mountain name, Kinpeizan, is said to be derived from the autumn colors that adorn the mountains surrounding the temple, which are as beautiful as a brocade coverd folding screen. In addition, a great variety of flowers can be enjoyd in the temple grounds throughout the four seasons.
 The founding priest, Muso Kokushi, was an important priest of the Zen sect during the Kamakura and Nanbokucho periods(A.D. 14th), responsible for the deep devotion of both the Emperor Godaigo and Ashikaga Takauji. His talent as a garden designer is evident in the garden he developed to the rear of the temple, which was excavated and restored in 1970 and is specified as a national place of scenic beauty.

写真撮影:2009年02月17日
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