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毛利季光・大江広元・島津忠久の墓


毛利季光・大江広元・島津忠久の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
毛利季光・大江広元・島津忠久の墓
毛利季光・大江広元・島津忠久の墓

 この階段を上ると、毛利季光、大江広元、島津忠久の3人のお墓があります。階段は2つありますが、右側の階段は島津忠久のお墓へ、左側の鳥居のある階段は毛利季光と大江広元のお墓へと通じています。
 ですが、上まで登れば3つのお墓が並んでいるので、どちらの階段を登っていっても同じです。
 3基あるやぐらは、古墳時代後期の横穴墓を改修したものです。源頼朝の墓と同様に、1779年(安永8年)に島津茂豪が整備したり、のちの毛利家が墓として整備したものと考えられています。
 実際に3人の墓であるとは、考えられてはいません。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・源頼朝の墓

写真撮影:2007年02月28日

毛利季光の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
毛利季光の墓
毛利季光の墓

 細い路地を通って階段を上がるコースと、源頼朝の墓から山道を通るコースの2ルートがあります。源頼朝の墓から行く方が分かりやすいですが、険しいので女性は無理かな(^^ゞ
 大江広元の子で、後の中国地方の大名になる毛利家の祖といわれる毛利季光の墓です。

写真撮影:2007年02月28日

毛利季光の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
毛利季光の墓
毛利季光の墓

 内部には数基の五輪塔が建ち並んでいます。

写真撮影:2007年02月28日

毛利季光の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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毛利季光の墓
毛利季光の墓

 この五輪塔は近世のもので、詳細に関してはわかっていません。

写真撮影:2007年02月28日

大江広元の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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大江広元の墓
大江広元の墓

 毛利季光と、大江広元(おおえひろもと)のお墓には、亀をかたどった石碑があります。
 源頼朝の招きにより鎌倉に来て、公文所(くもんじょ)、政所(まんどころ)の別当として幕府の政治を進めた、大江広元の墓です。
 大江広元の墓は、十二所の明王院裏山にもあります。

写真撮影:2007年02月28日

大江広元の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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大江広元の墓
大江広元の墓

 石燈篭や、お供えに折り鶴がありました。
 大江広元は、1148年(久安4年)に生まれ、1225年(嘉禄元年)6月10日、78歳で亡くなっています。
 大江匡房(おおえまさふさ)の子で、中原広秀の養子となりました。はじめは朝廷で少外記となり、源頼朝に招かれ重用されました。公文所(くもんじょ)、政所(まんどころ)の別当として幕府の政治を推し進めていきました。
 1216年(建保4年)、出家して覚阿と称しました。

写真撮影:2007年02月28日

大江広元の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
大江広元の墓
大江広元の墓

 この五輪塔は近世のもので、詳細に関してはわかっていません。
 十二所には大江広元が祀られている、大江稲荷神社があります。大江広元にしては、とても小さな稲荷神社です。
三浦半島観光地図:鎌倉市十二所・大江稲荷神社

写真撮影:2007年02月28日

島津忠久の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
島津忠久の墓
島津忠久の墓

 島津忠久(しまづただひさ)のお墓の石碑だけ、亀じゃない。血筋が違うからなのでしょうか、階段も別になってるし・・・
 源頼朝の子といわれ、後の南九州地方の大名になる島津家の祖といわれる、島津忠久の墓です。

写真撮影:2007年02月28日

島津忠久の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
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島津忠久の墓
島津忠久の墓

 この五輪塔は近世のもので、詳細に関してはわかっていません。
 島津忠久は源頼朝の嫡子といわれています。島津家の祖で、従五位下豊後守になっています。源頼朝の御家人としって、島津庄の下司職・地頭職を兼ね、1227年(安貞元年)に亡くなりました。

写真撮影:2007年02月28日
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