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北条義時法華堂跡・三浦泰村の墓


北条義時法華堂跡

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
北条義時法華堂跡
北条義時法華堂跡

 この一帯には、法華堂や墓が多く、さまざまな人物が入り混じって一箇所に固まっています。
 ここは北条義時の法華堂跡と伝えられています。石灯篭などがあるだけで、他に何もない一面の野原です。白旗神社のあたりから路地を進むとここに登る階段があります。さらにここから上に登る階段があり、そこには大江広元らの墓があります。
 北条義時は、1163年(長寛元年)に生まれます。初代執権、北条時政の次男で、北条政子の弟に当たります。鎌倉幕府第2代執権になります。
 1224年(元仁元年)、病のために急死します。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・源頼朝の墓

写真撮影:2007年02月28日

三浦泰村の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
三浦泰村の墓
三浦泰村の墓

 宝治の乱で破れた、三浦泰村(みうらやすむら)ら一族の墓だと伝えられているやぐらです。
 三浦泰村は、1184年(元暦元年)に生まれました。父は三浦義村になります。通称は駿河次郎です。武勇に秀で、特に弓術を得意とした鎌倉幕府の有力御家人の一人です。
 1247年(宝治元年)、北条時頼と安達景盛の謀略により、鎌倉で挙兵します。しかし戦いに大敗した三浦軍は追い詰められ、源頼朝の法華堂にて、一族郎党以下500余名と共に自害して果てます。
 こうして、鎌倉幕府で政敵を排除した北条氏は、執権政治により独裁色を強めていくことになります。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・源頼朝法華堂跡

写真撮影:2007年02月28日

三浦泰村の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩13分
地図
三浦泰村の墓
三浦泰村の墓

 宝治の乱では、三浦泰村の弟、三浦光村も自害して果てます。1205年(元久元年)に生まれ、通称を駿河三郎といいます。
 宝治の乱では他にも、千葉秀胤、毛利季光、和田義盛の乱で生き残った一族や配下の者たちも加わりました。
 わずかに残った和田の一族は越後の領土を安堵され、後に揚北衆(あがきたしゅう)の三浦党と呼ばれる越後和田氏(三浦和田氏)が形成しました。
 越後に残った毛利経光の子孫には、戦国時代に中国地方を統一した毛利元就を輩出します。鎌倉氏の一派長尾氏の子孫には、越後の虎上杉謙信(長尾景虎)を輩出します。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・毛利季光の墓
三浦半島観光地図:人物事典・和田義盛
三浦半島観光地図:1213年・和田義盛の乱

写真撮影:2007年02月28日
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