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鶴岡八幡宮に行くと、だいたいみんなこのあたりで写真を撮ります。
1063年(康平6年)、源頼朝の5代前の源頼義(みなもとのよりよし)が、山城国(現在の京都府)の岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を勧請して、鎌倉の由比郷(ゆいごう・元八幡の場所)にまつりました。その後、1081年(永保元年)、源頼義の子の源義家が社殿を修理しました。
1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉に入った時、小松郷が岡(現在の若宮のあたり)に移しました。由比郷にあった八幡宮に対して、鶴岡若宮と呼ばれました。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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鶴岡八幡宮(本宮・上宮) |
JR鎌倉駅下車 徒歩8分
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そしてもう1枚は、階段の途中で写真を撮る人が多いですね。銅葺き屋根に、朱塗りの2層の楼門です。ハトの形の八の字で「八幡宮」と書かれた額があります。明治時代の廃仏毀釈までは、「鶴岡八幡宮寺」の額でした。
1191年(建久2年)、火災で焼けてしまったため、翌年の1192年に背後の大臣山にあった稲荷社を隣に移し、そのあとに社殿を建て、鶴岡八幡宮(現在の上宮)としました。
源頼朝は、鶴岡八幡宮を平安京の天皇の内裏の場所に見立てて鎌倉の中心とし、町や道造りを行いました。また、幕府の重要な儀式も鶴岡八幡宮で行い、流鏑馬(やぶさめ)、相撲も奉納されました。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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楼門の左右にいる随神像です。
昔は、神と仏が一緒に祀られていたので、八幡宮寺(はちまんぐうじ)とも呼ばれ、薬師堂(やくしどう)、護摩堂(ごまどう)、仁王門(におうもん)、二十五坊なども造られました。鎌倉幕府の中心として大きな役割を果たすこととなり、武士の信仰の拠り所となりました。
その後、武士の世の中が約700年続きましたが、鎌倉時代以外にも、室町時代、江戸時代にも源氏の氏神として厚い信仰を受けてきました。
鶴岡八幡宮の例大祭は、9月14日に宵宮祭(よいみやさい)、15日に例祭、16日に流鏑馬を行います。15日には、室町時代に造られた神輿3基を中心に、御神宝、神馬、氏子の人々が長い行列を作って、本宮から二の鳥居の御旅所まで行って祭礼を行います。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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大きな鶴岡八幡宮にしては、似つかわしくないくらい小さな狛犬。しかも、痩せてる・・・
鶴岡八幡宮では、楼門の中に、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の命によって、1828年(文政11年)に造られた社殿があります。本殿と拝殿を幣殿で繋いだ、エの字形の権現造(ごんげんづくり)となっています。
建物には飾金具、彫刻、塗り、彩色などが施され、拝殿より奥の本殿の方が立派な造りになっています。1980年(昭和55年)、鶴岡八幡宮が現在の場所に造られて800年になったのを記念して、漆を塗り替えました。
祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)です。
本殿の左の回廊には宝物殿があり、桃山時代〜江戸時代初期の7基の神輿、鎌倉時代の擬宝珠、栄西禅師が中国で1190年(建久元年)に贈られた堆黒箱、鎌倉彫の墨壺、刀剣、考古資料、古神宝類、申楽面などが所蔵されています。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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鶴岡八幡宮といえば、有名なのが大銀杏。このイチョウにはタイワンリスがいるよ。
樹齢千年ともいわれる大銀杏の木。別当公暁(べっとうくぎょう)の隠れ銀杏と言い伝えられていますが、真偽のほどは不明です。
公暁は、源頼家(みなもとのよりいえ)が鎌倉幕府2代将軍となった翌年、1200年(正治2年)、源頼家の次男として生まれ、幼名を善哉といいました。母は、源為朝(みなもとのためとも)の孫です。
源頼家が北条氏のために伊豆に幽閉され修善寺で殺された翌年、6歳で祖母の北条政子のはからいによって鶴岡八幡宮別当の尊暁(そんぎょう)の弟子となり、名も公暁に改めました。18歳で、鶴岡八幡宮の別当となりました。昔は神仏混交といい、神も仏も一緒にまつっていたので、鶴岡八幡宮にも僧がたくさんおり、公暁はその長となる別当になりました。
幕府の執権だった北条氏は、公暁をそそのかして三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)を父・源頼家の仇として狙わせ、源氏の手によって源氏を滅ぼしてしまおうと考えました。一説には、三浦氏が公暁をそそのかしたとも言われています。
源実朝は、父・源頼朝が征夷大将軍となった1192年(建久3年)に生まれました。幼名を千幡(せんまん)といい、母は北条政子です。源頼家と源実朝は兄弟で、源実朝と公暁は叔父と甥の関係になります。
源実朝が三代将軍になったころは、幕府の実権は執権の北条氏や、北条政子のものとなっていました。そのため源実朝は、和歌に心を傾けていました。和歌を作る才能に優れ、滅多に人を褒めることのない源実朝の和歌の師である藤原定家(ふじわらのていか)も、源実朝を褒めていました。
源実朝の和歌を集めた本を『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』といいます。金は鎌倉の「鎌」の偏をとり、槐は三公(左大臣、右大臣、内大臣)のことで、「鎌倉右大臣和歌集」という意味になりまs。約700首が収められ、万葉集の歌の調子をもったものもあります。
源実朝は暗殺について『吾妻鏡』に、暗殺されることをほのめかす記述があります。1219年(承久元年)正月27日n夜、源実朝の右大臣拝賀の式を鶴岡八幡宮で行うこととなりました。源実朝は屋敷を出るとき家来に髪を切って与え、庭の花を見ながら「出ていなば、主なき宿と、なりぬとも、軒端の梅よ、春な忘れそ」と歌を詠んでいます。
拝賀の式を終え、雪の降る石段を下り始めた源実朝に、公暁が斬りつけて首をとって逃げました。しかし北条義時、三浦泰村らの追っ手に討ち取られてしまいます。こうして源氏は3代で滅んでしまいます。源実朝28歳、公暁20歳でした。
源実朝は勝長寿院(ちょうしょうじゅいん)のそばに葬られ、夫人を含め多くの家来が出家しました。現在、扇ガ谷の寿福寺に源実朝の供養塔と考えられる五輪塔があります。
身近な植物図鑑:イチョウ(銀杏・公孫樹)
身近な植物図鑑:イチョウ(銀杏・公孫樹)
身近な植物図鑑:イチョウ(銀杏・公孫樹) |
| 撮影:2007年02月28日 |
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下拝殿とも呼ばれます。
舞殿って、以前はこんなに立派じゃなかったけどなー、いつのまに修復したんだろう。
鶴岡八幡宮は明治維新までは、神仏習合で鶴岡八幡宮寺といわれ、寺院的要素が濃厚でした。近年の直会殿建設にともなう発掘調査の結果、江戸時代、鎌倉の名所として知られていた大塔(おおとう)といわれる多宝塔や、豊臣秀吉の鶴岡八幡宮修営目録見絵図に一致する回廊跡、しれ以前の建物跡の一部も明らかになりました。
創建時に近い頃の土丹敷(どたんじき・鎌倉独特の土木的工法で軟質の泥岩塊を敷き詰めた地面)の溝や、木造の溝枠なども見付かっています。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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突き抜けてる。僕も舞殿で舞いたい・・・ |
| 撮影:2007年02月28日 |
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下宮(しものみや)とも呼ばれ、源頼朝が最初に八幡宮を建てた場所です。現在の建物は、江戸時代の将軍、徳川秀忠(とくがわひでただ)、徳川家光(とくがわいえみつ)が再建したもので、日光東照宮にも似た造りになっています。
祭神は、仁徳天皇(にんとくてんのう)、履中天皇(りちゅうてんのう)、仲媛命(なかのひめのみこと)、磐之媛命(いわのひめのみこと)です。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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1186年(文治2年)4月、源頼朝と北条政子が鶴岡八幡宮にお参りしたつでに、静御前(しずかごぜん)の舞を希望し、見物したことがありました。静御前は源頼朝の弟、源義経に仕えていましたが、源頼朝と源義経の仲が悪くなり、源義経と共に逃亡していました。しかし、静御前は捕らえられ、鎌倉に送られました。
「しずやしず、しずのおだまきくりかえし、むかしをいまに、なすよしもがな」と歌いながら舞う静御前の姿に、見ている人々は水を打ったように静まりかえったといいます。
しかし源頼朝は、源義経を慕う歌をうたったとして大いに怒りましたが、北条政子のとりなしによってなだめられ、静御前に褒美を与えたといわれています。
若宮の回廊で行われたとされていますが、当時の若宮は現在の石段のところにありました。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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複雑に入り組んだ鳥居が面白い。本宮の西側の小高い丘の上にある赤い社です。
赤くてもシャア専用ではないので、どなたでもお参りすることができます。通常の3倍のご利益があるとか、ないとか・・・ |
| 撮影:2007年02月28日 |
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鶴岡八幡宮ができる前からあった神社です。タイワンリスが油揚げを食べていました(^^ゞ
この社殿は室町時代に建てられたもので、現在の鎌倉に残る神社建築の中では、一番古いものになります。この社殿は国の重要文化財に指定されています。
和様(わよう)で、一間社流見棚造の様式で、のちの修理がありますが、関東地方では数少ない中世の神社建築として貴重なものです。
例祭は4月9日で、他にも2月の初午祭、11月8日の火焚祭があります。 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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源氏池・平氏池、2つ合わせて源平池ですが、時間の都合で源氏池の方しか回れませんでした。カモ類の野鳥たちがたくさんいたので、越冬地になっているみたいですね。
太鼓橋の左右のひょうたん型の大きな蓮池です。源頼朝が平氏を滅ぼそうとした1182年(寿永元年)4月、源頼朝の夫人の北条政子が、大庭景義(おおばかげよし)、専光坊(せんこうぼう)に命じて掘らせたと伝えられる放生池(ほうじょういけ・仏教の教えにより捕らえた生物を放す儀式を行うための池)と考えられます。
右側(東側)の大きな方の池を源氏池とし、白い蓮を植えて3つの島を築きました。左側(西側)の小さな方の池を平氏池とし、赤い蓮を植えて4つの島を築きました。
3は産に通じ東の源氏は栄え、4は死に通じ西の平氏が滅亡するという意味を表したものだとのこと。
源氏池には旗上弁財天社(はたあげべんざいてんしゃ)があります。源頼朝が平氏を討伐するために旗揚げした際、弁財天の励ましを受けたということから祭られるようになりました。現在の社は、鎌倉幕府800年祭の際に江戸時代の古図をもとにして造られました。
東南には、木曾石を形良く並べたところに、ぼたん園があります。春ぼたん2000株、冬ぼたん500株が栽培されています。日中国交回復を記念して造られたものです。中国品種のぼたんもあります。
身近な野鳥図鑑:カモ目野鳥図鑑 |
| 撮影:2007年02月28日 |
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