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三浦市三崎


三浦市三崎の歴史

三浦市三崎の歴史(ずっと前)

 

 平安時代の頃、『和名類聚抄』に記録があり、、相模国御浦郡五郷のひとつで、「美佐木」とあります。

 鎌倉時代、『和名類聚抄』の御埼郷が荘園化したと考えられています。三崎荘の荘域は、現在の三浦市三崎を中心に、旧三崎町・旧初声村・旧南下浦村を含んでエリアと考えられます。
 建長5年10月21日、近衛家所領目録に「一、請所・・・相模国三崎庄」とあり、11世紀には三条天皇の皇女冷泉院宮の所領でしたが、近衛家に伝領されています。
 『吾妻鑑』では建久5年閏8月1日、源頼朝が山荘を建てるため三浦三崎津にでかけたとあり、9月6日に完成し、三浦三崎別業で小笠懸などを楽しんだとあります。その後、三浦三崎御所で何度か催しが行われ、将軍以下の遊覧の地となっていました。
 建武2年9月27日、足利尊氏充行下文には、三浦介平高継が勲功章として与えられた所領の中に「三浦内三崎」とあります。7月の中先代の乱で、高継の父時継が北条方について破れ、子の高継は足利方として活躍した結果、父の本領を始めとして、諸所を与えられました。
 三浦半島に本拠を持つ三浦市は、高継の子高通が相模国守護となり、観応2年10月7日相模守護三浦高通禁制では、「右大将家法華堂領三崎庄内太田和村」での乱暴狼藉を禁止しています。これにより、三崎庄は横須賀市の太田和村が含まれ、一部は鎌倉法華堂領だったことがわかります。
 至徳2年12月5日、将軍御教書によれば、「相模国三崎庄・・・領家職」は近衛基嗣から楞伽寺へ寄進されたものとあります。
 文明18年8月〜9月初旬、京都の道興准后は房総半島金谷付近から船で「みさき」に上陸しています。

戦国時代の頃

 

 永正10年4月17日、足利政氏判物に「敵指詰之時、於三崎要害励戦功」とあり、この時期に要害が築かれています。
 永正14年3月3日、上杉朝良書状写に、「去年七月三崎落居、道寸父子於城中討死」とあり、北条早雲によって三浦半島に追いやられていた三浦氏は、永正13年7月三浦義同・義意父子が新井城で討ち死にし滅亡しています。
 以後、小田原北条氏の水軍の拠点として、重要な地位を占めるようになります。
 『小田原衆所領役帳』には、御家門方で北条為昌お家臣だった山中彦十郎の所領役高として「廿貫文 三浦 三崎之内」とあり、半役被仰付衆の三崎十人衆の役高として「廿三貫五百文 三崎内 新給ヒ被下 海賊被仰付ニ付而 諸役御免」とあります。三崎十人衆のうち、『北条五代記』から出口・亀崎・鈴木・下里・三留の5人が知られていますが、北条氏の水軍として組織されました。
 年代未詳ですが、里見氏の相州攻めに関する内容から永禄4年と推定される11月9日の北条氏康感状案写に、「去八日房州衆、三崎へ成地之処、各及防戦」とあり、梶原吉右衛門以下の海賊衆の活躍が確認できます。
 永禄12年と推定される3月23日の北条氏康書状には、「追、兵粮儀ハ三崎ニて、自山中前可請取」とあり、内藤廿騎衆を三崎まで召集しています。
 元亀3年壬申(永禄3年説もあります)6月18日北条綱成判物写では、三浦の上宮田で竹木を切り取る者がいたら、すぐ「当津三崎」に申上せよと命じています。
 元亀3年9月15日、北条氏規朱印状には、「於三崎法満寺之屋敷・・・自兼日南条因幡守陣屋之儀ニ候」とあり、氏規の重臣南条昌治の陣屋が、三崎法満治内に置かれていたことが分かります。
 天正13年7月22日、北条家掟書写は、田津の浜代官・百姓中・舟持中にあてたもので、船の出入りを厳重に取り締まり「三崎へんを越、梶原・山本ニ手判を取而出船事」と命じています。
 天正18年正月4日、北条氏規朱印状写では、被官人は「御崎・小田原」に移動させ、妻子・郎等・浜粮・荷物以下は小田原城に入れるように「陣触」を行っています。5日の氏規朱印状にも、辰千代被官はことごとく「三崎・小田原」へ召し寄せるようにとあります。豊臣秀吉との対陣を控え、騒然たる様相を呈し始めたと言えます。
 天正18年4月、小田原北条氏は秀吉に降伏します。6月以降に作成された関東八州諸城覚書には「三崎見崎 北条美作守(氏規) 五百キ」とあります。豊臣方の敵状調査の実態を示し、三崎城は北条氏規が掌握し、500騎ほどの兵力が動員されていたことがわかります。

江戸時代の頃

 

 江戸時代の寛政10年・元禄10年、幕府領です。幕末は浦賀奉行所領です。
 延宝4年、向ヶ崎村、宮川村、東岡村、仲之町岡村、二町谷村、原村、城ケ島村、城村が分村しています。
 『元禄郷帳』では37石余、『天保郷帳』では42石余、『旧高旧領取調帳』では三崎村42石余とあります。『三浦古尋禄』では文化年間は浦賀奉行支配42石余、化政期の家数540軒とあります。
 天正18年、徳川家康の関東入国以後、徳川水軍の拠点のひとつとなり、向井政綱・千賀孫兵衛・小浜景隆・間宮高則の御舟手衆が屋敷を構えていました。
 文禄3年、長谷川長綱が検地を行い、家数448軒。
 在地していた御舟手衆はのちに江戸に移され、向井忠勝1人が残って寛永元年に三崎御番、寛永9年に走水御番の兼帯を命じられ海防と近郷の行政を行いました。正保2年から両番所に専任の奉行が任ぜられ、江戸出入りの廻船改は、下り船は走水番所、上り船は三崎番所が行うことになりました。元禄9年、両番所が廃止され、下田奉行が任を受け継ぎました。享保5年、浦賀奉行所が引継ぎ、出張番所が新たに設置され奉行所の与力・同心が交代で詰めました。この三崎御役宅と呼ばれた構内には、船蔵・焔硝蔵などがありました。
 『豆相海浜浦々図』では三崎湊は、湊の入り口が3つあり、西の口広さ4町程・深さ4丈5寸、東の口広さ2町程、深さ7丈5尺〜10丈、北の口広さ2町程、深さ6尺〜1丈2尺まで、中ほどでは幅2町余となり深さ4尺〜5尺余、廻船700艘ほどが停泊できますが、船入込の時は諸磯・小網代・下宮田の湊に移動しました。所有船数280艘のうち、漁船137、小買船58、丸木船57、押送船29、諸運上は船年貢永38貫125文、鮑役永14貫788文、鰹節役永11貫562門、海老栄螺役永3貫文、諸肴役永5貫文、初鰹運上永2貫文とあります。
 『新編相模穀風土記稿』では、江戸から18里余、海路で江戸へ18里、浦賀へ4里、伊豆下田へ30里、同網代へ18里、安房勝山へ5里、同館山へ8里、東西7町・南北1町半余、家数597軒、漁船190・極印船19、問屋15軒、漁獲物はカツオ・アワビ・エビなどが上等で海藻類も豊富。三崎番所跡、小浜景隆・向井政綱・千賀的兵衛屋敷跡、三崎城跡があり、神社は三浦郡総社の海南明神社、寺院は浄土真宗最福寺が上げられています。
 海南明神社は天正19年徳川家康寄進状写に「三浦郡三崎之内五石之事」とあり、5石の寺領が寄進されています。
 延宝2年、江戸本材木町新肴場の附浦とされ、漁獲物のすべてを新肴場へ送ることとされました。

明治時代の頃

 

 『皇国地誌』によれば、税地は7町8反余のうち畑8反余・宅地5町5反余・山林1町2反余・船置場1反余とあります。明治9年の戸数802、人口3995、船数432のうち80石積以下荷船5・漁船400・押送舟14・伝馬舟7・平田舟6、民営の病院分局、郵便取扱所、教員数3・生徒数130の東岬学校、教員数4・生徒数235の西岬学校があります。
 地勢については、「浜海ノ地稍低平ニシテ人家鱗比シ・・・耕作耘ノ地ナク米穀薪炭凡テ他方ニ仰グト運輸便利ナルヲ以彼此ノ利自ラ土地ヲ潤沢セリ」とあります。
 港は1年間で出入船数1200艘を下らず、明治9年調べで1年間の輸入貨物金10万円・輸出貨物金5万7600円とあります。
 明治8年、城村を編入しました。
 明治11年、日ノ出町、入船町、仲崎町、花暮町、海南町、西野町、宮城町、西浜町の8町が分町し、それぞれ三崎を冠称しています。

自治体三崎町誕生以後

   明治22年、三崎町、諸磯村、小網代村、城ケ島村、六合村の1町4村が合併し、自治体の三崎町が誕生しました。日ノ出・入船・仲崎・花暮・海南・西野・宮城・西浜・諸磯・小網代・城ケ島・六合の12大字が変入されました。役場は六合に設置されました。
 明治24年、戸数1672、男4402人、女4307人。
 大正9年、戸数2076、1万620人。
 昭和10年、戸数3004、1万4789人。
 昭和25年、戸数4056、1万9334人。三崎町通り矢が新たに誕生しました。
 昭和30年1月1日、三浦市の一部となりました。三崎町成立時の13大字は、三崎町を冠称し、三浦市の大字に継承されます。
 昭和40年、三崎は三浦市の町名となりました。もとは三崎町入船、三崎町仲崎、三崎町花暮、三崎町海南、三崎町西野、三崎町宮城、三崎町西浜、三崎町日ノ出、三崎町六合です。

地名の由来

   平安時代からみられる地名で、「御崎郷」があります。
 『和名抄』には相模国御浦郡五郷のひとつとなっています。
 御崎は「美佐木」とも書きました。
 
  白石町 東岡町 城山町
  三崎 諏訪町
向ケ崎町
  三崎町城ケ島  

三崎小学校


三崎小学校 140年以上の長い歴史を持つ小学校。
 北原白秋作詞、山田耕筰作曲の校歌があります。

 
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