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三浦半島の歴史2


三浦半島の江戸時代

北条氏の支配から徳川家の支配へ

 

 三浦一族から三浦半島を奪い取る事に成功した後北条氏は、三崎に城を築きました。また、海を渡ってたびたび攻め寄せてくる房総半島の里見氏に対抗するため、水軍を強化し、浦賀に拠点を築きました。こうして、三浦半島の後北条氏による支配は、約80年続きました。
 しかし、豊臣秀吉・徳川家康の小田原城攻めに敗れ、徳川家康が関東平野の新しい領主になりました。三浦半島は、代官の長谷川七左衛門が支配することとなりました。
 長谷川七左衛門は、三浦半島に着任して最初に太閤検地を行いました。新しい尺度による検地で、これによって三浦半島の村々は村高が決められ、年貢の換算基準となりました。

三崎には船手奉行が置かれる

   江戸への海の玄関口として重要なことから、三崎に船手奉行が置かれました。向井氏、間宮氏、小浜氏、千賀氏が海の守りを固めました。
 しかし、元和年間〜寛永年間にかけて、臨戦態勢が不要になったので、向井氏と間宮氏以外は三崎を離れました。
 その後、代官支配を兼ねた三崎と走水に番所が置かれ、向井氏がその任に当たりました。三崎は江戸から関西方面へ向かう上り船を検分し、走水は江戸へ向かう下り船の検査が行われました。
三浦半島の歴史:人物事典・向井忠勝向井忠勝

番所は伊豆下田へ移転し、その後浦賀に移転

   1696年(元禄9年)、三崎と走水の番所は廃止とされ、伊豆下田へと統合されました。
 しかし、東北地方の収穫高が増え、関東周辺からの農作物が出回るようになると、下田では船の検分が十分にできなくなったため、番所を浦賀へ移転させました。
三浦半島の歴史:横須賀市西浦賀の史跡巡り西浦賀
三浦半島の歴史:横須賀市東浦賀の史跡巡り東浦賀

浦賀が三浦半島の中心地

   浦賀は、江戸時代初期から、干鰯(ほしか・肥料として使用する)、しめ粕の積み出し港として栄えていました。
 そこへさらに、江戸出入りの船が検分のために必ず立ち寄らなくてはならなくなり、浦賀は三浦半島の政治・経済・文化の中心地へと発展しました。

三浦半島の庚申塔

   江戸時代には、三浦半島には79の村がありました。地域の特性を生かして、農業・漁業・運輸業などと、それに関わる業種を生業として生活していました。
 その暮らしぶりは他地域に比べると、ゆとりのある生活を送っていたのではないかと考えられています。
 そのゆとりのひとつの表れとして、庚申塔の存在があげられます。三浦半島には、約2000体もの庚申塔があり、ゆとりがあればこそ「講」が組織され、活動していたのではないかと思われます。

激動の三浦半島

会津藩の江戸湾警護

 

 三浦半島の村々に大きな変化が現れるようになったのは、19世紀初頭の江戸湾警備のために会津藩が常駐するようになってからです。
 日本近海で外国船の姿をしばしば目にするようになり、江戸湾を警備するために会津藩が台場を築きました。その応援に三浦半島の村人が手伝わされました。

異国船がやってきた

   会津藩が警護をしている時、江戸湾にも外国船がやってきました。
 最初の異国船はブラザーズ号で、その後、サラセン号、モリソン号、マンハッタン号が来航しました。さらにアメリカ東インド艦隊の司令官ビッドルに率いられた2隻の軍艦が来航しました。
 異国船の大きさと、大砲の多さに驚き、江戸湾警護は根本的な見直しを迫られました。そこで、彦根藩が現在の三浦市京急三浦海岸付近に陣屋を設け、川越藩が横須賀市大津町に陣屋を設けました。

ペリー来航

   1853年(嘉永6年)6月、ペリー提督が浦賀沖へ来航しました。久里浜に上陸して、大統領からの新書を手渡し、近代日本へ向けた第一歩を歩み始めました。
 さらに、翌年にもペリーは来日し、横浜で日米和親条約を締結しました。
 1858年(安政5年)、日米修好通商条約が締結され、欧米諸国との貿易が始まりました。
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・ペリー公園ペリー公園

横須賀製鉄所建設へ

   開国にともなって、幕府は工業化政策の一環として、横須賀村に製鉄所(造船所のこと)を建設することにしました。フランスから、技術者ヴェルニーらを招いて、本格的な洋式設備を備えた、造船所建設が始まりました。
三浦半島の歴史:人物事典・フランソワ・レオン・ヴェルニーヴェルニー

三浦半島の近代化

横須賀製鉄所完成

 

 1871年(明治4年)、横須賀製鉄所は完成しました。
 横須賀製鉄所の完成は、これからの近代工業の発展に寄与しただけでなく、労働環境なども一変し、あらゆる面で近代日本の手本となるような工場でした。

横須賀鎮守府設置

   造船所は帝国海軍へと引き継がれました。
 1884年(明治17年)には、横須賀鎮守府が置かれ、横須賀は海軍の町として発展していくことになります。

横須賀線開通

   1889年(明治22年)、横須賀線が開通しました。すると鎌倉、逗子、葉山は別荘地として注目されるようになりました。町も別荘文化と共に発展していきました。
 1894年(明治27年)、葉山に御用邸ができると、別荘地としての色合いはさらに濃いものとなりました。別荘を持てない人でも、保養に訪れる人が増加し、近代的な衛生感覚で作られた逗子の旅館・養神亭はつねに満室だったといいます。

横須賀は海軍の町として発展

   19世紀後半〜20世紀初頭に、日清戦争・日露戦争により、ますます海軍力の増強が図られ、横須賀は軍都として発展していきました。
 1907年(明治40年)、豊島町との合併を期に、横須賀に市制が敷かれました。
三浦半島の歴史:1904年・日露戦争日露戦争

関東大震災

   1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生しました。
 三浦半島では多くの人命や財産を奪っただけでなく、美しい海岸や、自然風景も一瞬にして変えてしまいました。
 横須賀市では、総戸数の約半数にあたる建物が倒壊し、4700戸が焼失しました。三崎町では、300戸以上が倒壊し、逗子町では900戸以上が倒壊し、多数の人命が奪われました。

葉山御用邸で大正時代が終焉

   1926年(大正15年)12月、葉山御用邸で病気療養中だった大正天皇が亡くなり、年号が「昭和」になりました。

三浦半島の昭和史

世界恐慌の影響

 

 昭和の始まりは、世界恐慌の影響で不況となりました。
 軍備縮小条約が締結され、横須賀海軍工廠では1800名以上の大リストラが敢行されました。
 せっかく開業した湘南電鉄(現在の京浜急行)は、路線の不便さもあり赤字経営が続いていました。

中国との戦争

   その後、中国との戦争へと突入していきました。戦線は拡大し、世界の強国との戦いへと発展していきました。
 軍都横須賀は戦時色が強くなり、学童疎開や勤労動員が行われました。さらに、市内各所では、建物疎開が強制的に行われました。

太平洋戦争の終結

   戦況は悪化し、1945年(昭和20年)8月15日、終戦の詔勅がラジオ放送され、太平洋戦争は終結しました。
 1952年(昭和27年)、対日講和条約が発効されるまで、日本はアメリカの占領下に置かれました。その間に、経済の民主化、教育改革が行われ、日本国憲法も制定されました。こうして、日本は民主主義国家へと生まれ変わりました。
 しかし、人々の生活は困窮していました。

朝鮮戦争勃発

   朝鮮戦争特需によって、横須賀市内の旧軍施設に民間企業が誘致されました。横須賀市追浜には、特需会社も進出するようになり、人々の暮らしにも明るい兆しが見えるようになってきました。
 1960年(昭和35年)ごろから、日本は高度経済成長の時代となり、都市部への人口が集中するようになりました。それに合わせるように、三浦半島にも住宅地や工業団地などが造成されるようになり、活発に開発が行われるようになりました。その結果、周辺の緑は急速に失われていきました。

バブルが弾けて平成へ

   高度経済成長は1972年(昭和47年)のオイルショックや、バブル経済の破綻により、安定成長の時代へと移行しました。
 そして、年号も昭和から平成へと変わりました。
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