義和団の乱から |
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朝鮮半島と満州の支配権 |
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1900年、外国の排斥を訴えて義和団の乱が起きると、列強は軍を送って清を降伏させました。
それに乗じて、日本は朝鮮の支配を画策し、ロシアは満州を占領し、次第に対立が深まっていきました。さらに、三国干渉によって遼東半島を奪われたことが、ロシアへの憎悪を募らせる原因にもなっていました。
三浦半島の歴史:1899年・義和団の乱 |
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ロシアに業を煮やす日本 |
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撤退を要求するも、開戦の準備は怠らず |
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当時の日本政府の中では、「満韓交換」を行おうという意見もありましたが、イギリスと同盟して韓国での権益を守ろうという主張が主流でした。日本はロシアに満州からの撤退を要求しながら、三国干渉を契機として開戦の準備を進めていました。その軍備の中心が、戦艦、装甲巡洋艦それぞれ6隻ずつを中核とする「六・六艦隊」の建設でした。ロシア海軍を撃破し、制海権を得て、補給路を確保することが目的でした。
ロシアの満州占領に反発していたイギリス・アメリカが日本を支持し、フランスは同盟を結んでいたロシアを支援しました。
ロシア側が撤退の条件として、満州における独占的な権益を要求し、朝鮮にも手を伸ばしていることが判明しました。日本政府はついに、「事態遂に放任を許さず」という声を挙げます。 |
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日本の戦費調達 |
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当時の日本には強大な艦隊を建設するための費用も、工業力もありませんでした。その大部分は、先進国のイギリスからの輸入に依存していました。
財源と外国への支払いは、日清戦争で清国から得た賠償金を充てる必要がありました。しかし、この賠償金を利用して金本位制度を採用することがすでに決定していました。軍艦購入は正貨流出をもたらし金本位制が崩れてしまうことになります。結局、金準備補充のためイギリスに借金をして、ロンドンの国際金融市場に深く依存することとなりました。 |
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日英同盟締結 |
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1903年(明治36年)、初夏のころ。
義和団事件の鎮圧後に締結した、北京議定書では、清朝は外国軍隊の北京駐留を承認させられました。
満州還付に関する露清協定によれば、ロシア軍は満州から撤退することになっていました。ところが、撤退どころか、ますます兵力を増強しつつありました。
これに危機感を持ったイギリスは、日本に接近し、1902年、日英同盟を締結しました。
こうしてイギリスは、経済的、軍事的、外交的にも日本を自国の影響下におき、ロシアの勢力拡張の抑止に日本の軍事力を利用することができるようになりました。
三浦半島の歴史:1902年・日英同盟 |
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ロシアに宣戦布告 |
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ついに宣戦布告へ |
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翌年の初め、日本はロシアへ宣戦布告をします。 |
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1905年1月1日、旅順陥落 |
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愚直なまでに真っ直ぐな司令官、乃木希典(のぎまれすけ)。
すさまじい犠牲者を出すことによって、ようやく二〇三高地を奪取しました。最後の総攻撃でさえ、1週間で戦死将校97名、下士官1900名、死傷者合計6200名にも及びました。
しかし、奪取した二〇三高地の効果は驚くほどで、28センチ砲を据えて旅順港内のロシア軍艦を狙い撃ちしまし、大半を撃沈することができました。山岳地帯の砦も沈黙し、敵将ステッセルは降伏しました。
感慨にむせんで、乃木希典は苦渋に満ちた凱歌を綴っています。
「皇師百万征強虜 野戦攻城屍作山 愧我何顔看父老 凱歌今日幾人還」
三浦半島の歴史:人物事典・乃木希典 |
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1905年3月1日〜10日、奉天会戦 |
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両軍の最大兵力が集中した陸戦が行われました。その結果、ロシア軍は退却しました。 |
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1905年5月27日〜28日、日本海海戦 |
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海軍は、玄界灘でバルチック艦隊を迎え撃ち、撃滅しました。敵艦隊の前面を横断して進路を遮り、側面に回って敵の主力艦に集中攻撃を浴びせかける戦い方をしました。これを「東郷ターン」と呼ばれるようになり、世界の海戦史上、まれに見る戦術として記録されることになりました。
三浦半島の歴史:人物事典・東郷平八郎 |
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日本海海戦 |
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丁字戦法は本当?それとも嘘? |
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小説家の司馬遼太郎の『坂の上の雲』によると、東郷平八郎がロシア艦隊に対して、横一文字に遮断して敵の進路を妨げる「丁字戦法」ととったことが、勝利の最大の要因としています。
ところが、歴史家の大江志乃夫は、『バルチック艦隊』で資料分析の結果、当日は天候が悪く、「丁字戦法」は中止したと書かれてあります。
どっちが本当?
三浦半島の歴史:人物事典・司馬遼太郎
三浦半島の歴史:人物事典・大江志乃夫 |
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日本の勝因 |
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ロシアの敗因 |
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ロシア国内ではロシア第一次革命運動(1905年ロシア革命)が起きており、ロシア軍の戦意を背後から喪失させていました。 |
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イギリス、アメリカの支援 |
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日本は、日清戦争集結から10年しかたっていませんでした。戦費もなく、イギリス、アメリカに外債を引き受けてもらいながら戦っていました。
三浦半島の歴史:1894年・日清戦争 |
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ポーツマス講和会議 |
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日本の国力では長期戦は不可能 |
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大国ロシアを相手にして、戦争を長期化することは、日本の国力では不可能でした。しかもイギリス、アメリカ両国は、日本の中国支配を阻止しようと、戦費支援を打ち切りました。
そこで、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋を受け、1905年(明治38年)9月、ポーツマスで講和会議が開催されました。
現在、ポーツマスは猫ひろしのネタのひとつとして使用されていますが、意味は良くわかっていないとのことです。
三浦半島の歴史:人物事典・猫ひろし |
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賠償金は得られず |
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世論は沸騰 |
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日本全権は小村寿太郎(こむらじゅたろう)、ロシア全権はヴィッテ。
このとき、ロシアは日本の朝鮮に対する監督権を承認し、満州の租借権と樺太の南半分、付属諸島の領土、沿海州とカムチャッカの漁業権を譲渡しましたが、賠償金は払われませんでした。
日露戦争の勝利により大国への道は保障されましたが、巨額の戦費が国民経済を圧迫するようになりました。重い租税負担に加えて、高利の戦争国債が財政を圧迫しました。
三浦半島の歴史:人物事典・小村寿太郎 |
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負けを認めないロシア皇帝ニコライ2世 |
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日露両国によるポーツマス講和会議が開催されていました。そこにニコライ2世から、「一寸の土地も、1ルーブルの金も譲るべからず」との訓令が届きました。
やむなく、日本側大使の小村寿太郎は妥協して合意することにしました。 |
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