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咸臨丸こぼれ話


咸臨丸こぼれ話

咸臨丸

 教科書では教えてくれない、遣米使節団の裏話です。
こういった側面から歴史をとらえると、歴史がおもしろくなってくるかも。

息抜きのつもりで、サラッと読んでくださいね。
この息抜きは、釘引き抜きにくい・・・


咸臨丸艦長勝海舟

勝海舟

後年、勝海舟は日本人で初めて太平洋を横断した英雄とされていますが、実際の所はどうだったのでしょう?

 幕府は、1860(万延元)年、使節をアメリカに派遣し、日米修好通商条約の条約批准書を交換させることにしました。この時の使節の随行艦として、咸臨丸を派遣することにしました。

 このプロジェクトの責任者は木村喜毅です。しかし、責任者とは別に艦長が必要だと知り、勝海舟が盛んに自分を売り込むため、彼を艦長にしました。
 木村は、初めての航海のため、アメリカの測量船フェニモア・クーパー号の船長ジョン・ブルック大尉を乗船させようとしましたが、勝海舟は、「あの程度のことなら自分でもできる!」といい、最後まで日本人だけの航行を主張しました。しかし、木村はブルック大尉らに協力を要請しました。
 結果としてこれが成功し、38日間の航海の内、34日間は荒天で、艦長の勝海舟は船酔いで私室にこもったままで、艦長らしき仕事は何一つやらなかったそうです。
 航海中、気に入らないことがあると、太平洋の真ん中でも、「俺はこれから日本に帰るからボートを降ろせ!」と乗組員を困らせていたそうです。
 サンフランシスコに着くと、急に元気になったのか、あらかじめ用意しておいた勝海舟の家紋をあしらった軍旗を取り出し、これを咸臨丸の艦旗として上げようとしたそうです。この様子を見たアメリカ兵がブルック大尉に告げ、さらに木村に告げやめさせることにしました。これを聞いた日本の乗組員たちは、大喜びで勝海舟の持参した旗を焼いてしまったそうです。
 福沢諭吉も乗船していましたが、航海中は船酔いでなにもせず、上陸が目前になると「俺が艦長だ!」といわんばかりの勝海舟の態度に嫌気がさしたのか、終生、福沢諭吉と勝海舟は仲が悪かったようです。
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日本から金がなくなる?

 下の小栗上野介の大活躍のための伏線として書いておきます。

 1854(安政元)年、日米和親条約が締結されたとき、通貨の問題が議題に上りました。
 アメリカ側は、単純に目方で決めようといい、日本の『一分金』を3枚と『1ドル銀貨』を1枚との交換を提案しました。幕府側は、1ドル=一分という単位を盾に、『1ドル銀貨』を1枚と『天保銀(一分銀)』を1枚の交換を主張しました。
 この時ペリーは、日本との開国が使命であり、日本との開国がようやく実現したとき、経済問題でもめることを避けあっさり妥協してしまいました。この時点で、幕府側は3倍も有利な条件におかれていました。

 しかし、恐い恐い総領事のハリスは、すぐに1ドル銀貨と一分銀の交換レートの改訂を迫り、『一分金』を3枚と『1ドル銀貨』を1枚との交換に応じることになりました。
 その後、日米修好通商条約において「外国の諸貨幣は、日本の貨幣の、同種同量をもって通用すべきものなり」と条文化されることになりました。英・仏・蘭・露との条約にも同様に明記されることになりました。

 この結果、日本では、小判(金)と銀貨(銀)との差が、欧米諸国と比べると、3倍〜5倍ほども小判(金)の価値が低かったため、欧米人はどんどん自分の国の銀貨を持ってきては、日本の小判(金)と交換しました。
 そして、金が大量に流出しました。五十万両とも、百万両ともいわれています。

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幕府の対策、無茶苦茶なハリス

 幕府は驚き、金銀(ポケモンじゃないよ)の国際相場に接近させるため、『天保小判』から『安政小判』と呼ばれる貨幣の改鋳を行いました。小判における金の量を減らし、逆に銀の量を増加した『新二朱銀』を流通させるという計画でした。これで、日本国内の価格単位を変えず、金銀の相場を欧米並みに近づけることができるはずでした。
 そして、『新二朱銀』は『一分金』よりも銀の量はかなり多くなるため、『1ドル銀貨』を1枚と『新二朱銀』を2枚とを交換するようにしました。

 ところが、ハリスは、これは重大な日本の背信行為であると主張し、イギリス領事のオールコックと2人で、幕府に対して猛反対をしました。
 幕府は、ハリスが恐いので、せっかくの新貨幣の流通を断念してしまいました。
 ひどいと思いませんか?

小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の活躍

切手

日米修好通商条約の調印を終えた日本使節団は、小栗豊後守忠順(当時は豊後守だったと思う・・・)の発案により、フィラデルフィアの造幣局に行き、日米間で正式な通貨の交換レートを定める経済交渉を行うことになっていました。

 小栗は、おもむろに懐から印籠を取り出し「ひかえおろ〜!」とは言わず、一枚の小判を出し、「通貨交換の中心となるべきものは、銀ではなく、金の方が適切である」と主張しました。欧米では『金本位体制』の発想があり、この提案はすぐに採択されました。

 次に、「ドル金貨と小判との交換に関して、目方だけで行うのではなく、金の含有量によるべきである」と主張しました。これに対しても、アメリカ側は当然な意見であると承諾しました。
 そして、金貨と小判の金の含有量の測定に関する実験を行い、日本の小判の方が、金貨に比べて金の含有量が多めであることが判明しました。

 さらに、「金貨にも小判にも、金以外の金属が含まれているはずで、日本では銀をかなり使用しているが、金貨の方はどうなのじゃ?」と訪ねました。金以外の金属、つまり銀の含有量を正確に把握していないと、正しい通貨の交換レートは決められないと主張したのです。
 これにはたまらず、アメリカ側も一応拒否し、日本使節側も、その場の雰囲気を察して、そこまでしないでいいと小栗を説得しようとしました。

 いや〜、小栗は偉いね。男だね、天才だね〜。
 「総領事のハリスは、江戸において不確定のまま貨幣の交換レートを日本に押しつけてきました。幕府にも、それをそのまま受け入れてしまった落ち度は認めます。しかし、その結果、不合理な交換レートのため幕府は膨大な損失を被っている。この損失はアメリカだけでなく、イギリス・オランダ・ロシア・フランスなど各国に及んでいます。
 幸いにして、日米間にはこのように正確に交換レートを定めうる場所が存在します。日米修好通商条約が今後とも末永く機能するために、手数をおかけすることは重々承知しておりますが、なにとぞ、正確なる交換レートの確定のためにご協力をお願いしたい。」
と主張しました。
 やっぱり、偉い人はいうことが違いますね、それに比べて今の政治家の方々は・・・

 アメリカ側も、小栗のいうことも一理あるとし、協力することにしました。結果はもちろん、日本の小判が、アメリカの金貨に比べて、遙かに良質であることが判明しました。

 使節団の日本人の評価はとても高かったのですが、小栗に対する評価は群を抜いていました。大統領の信任が厚いデュポン大佐が、小栗のことを、『日本の法務長官』とよび、格別の敬意を払ったといわれています。
 小栗の活躍によって、日本からの金の流出は、防ぐことができました。

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