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三浦半島の歴史


黒船
黒船

古代

 東に東京湾、西には相模湾、中央部には山岳地帯の広がる横須賀市。西に相模湾を控える、逗子市、葉山町。はるか南に、かつては噴煙が上がっていたであろう伊豆大島を見る三浦市。黒潮の影響で、海洋性の温暖な気候と、風光明媚な景勝の地で、古くから人々に生活の舞台を提供してきました。
 夏島式土器(なつしましきどき)、諸磯式土器(もろいそしきどき)、平坂人骨、各地に散在する横穴式古墳、日本武尊(やまとたけるのみこと)にまつわる走水伝説など、原始〜古代にかけて半島に生きてきた人々の足跡を今に残しています。

奈良時代

 奈良時代には、房総半島への道として、古東海道が三浦半島を縦貫していました。それに沿った場所に建つ横須賀市久郷には、法隆寺式伽藍を配した宗元寺(曹源寺)が建てられ、この地の繁栄を物語っています。

平安時代〜鎌倉時代

 平安末期〜鎌倉初期にかけて、三浦半島に勢威をもっていたのが三浦氏です。
 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に呼応して、三浦大介義明は衣笠城に畠山氏を迎え撃ちました。三浦義明は敗れ自害しましたが、その後の一族は鎌倉幕府創設に参加し、和田義盛らがその要職に就きました。
 しかし、権力をめぐる執権北条氏との争いに破れて衰退しました。

三浦半島の歴史:人物事典・和田義盛
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明

室町時代〜戦国時代

 三浦氏は、三浦同寸義同の代に、小田原の北条早雲に、居城の油壺にある新井城を攻め落とされて滅亡しました。
 その後、北条氏は房総半島の里見氏と対立したため、北条氏の前線基地となった三浦半島では、三崎十人衆と呼ばれる水軍が活躍しました。

江戸時代

 三浦半島の多くは、江戸幕府の天領、または旗本の知行地となり、各地で新田開発が行われました。17世紀には59カ村2万400石余りとなりました。
 三浦半島で最も繁栄していたのは、浦賀奉行所の置かれた浦賀港でした。肥料用の干鰯(ほしか)の集散地として問屋街も形成され、全国の舟で賑わいました。
 1853年(嘉永6年)、アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、近代日本への幕を広げ、江戸幕府は小漁村だった横須賀にフランスと協力して横須賀製鉄所を建設しました。

明治時代以降

 江戸幕府崩壊後、明治政府は海軍の増強をはかり、横須賀は軍港として発展しました。
 第二次大戦敗戦後は、横須賀軍港はアメリカ軍の管理下に入りました。横須賀港周辺には、輸送関連の大工場が進出しました。
 現在、三浦半島一帯は、首都圏のベッドタウンとして、観光地として、水産業の基地となっています。
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