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横須賀市秋谷史跡巡り・観光名所案内


横須賀市秋谷の歴史

横須賀市秋谷

 

 三浦半島の西部に位置し、東は大楠山に連なる丘陵地となっています。
 夏の秋谷海岸は、海も砂も綺麗で、海水浴で賑わいます。
 浜辺の波打ち際に立つ奇岩立石、梵天ヶ鼻の松、遠くにそびえる富士山で絶景の地となっており、「かながわの景勝50選」に選ばれています。江戸時代の浮世絵師・安藤広重も、「三浦秋谷之里」と題して描かれています。
 明治時代、葉山御用邸ができると、現在の立石公園に御茶寮が設けられました。昭和天皇が海岸生物採取を行った際も、御茶寮に立ち寄っています。

 戦国時代から見られる地名で、相模国三浦郡になります。
 浄楽寺の弘治3年3月20付木造阿弥陀如来坐像銘札の最後に、「筆者秋屋住正行院光誉」とあります。
 『役帳』に、小田原北条氏の御家中役之衆で大貝寄子たる権田式部丞の所領役高として「五拾三貫四百拾壱文 三浦 秋屋」とあります。
 『鎌倉管領九代記』の永正9年8月、北条早雲が三浦義同の守る岡崎城を攻略する様子を記した箇所に、「三浦入道は住吉城にも留まりかね、秋谷の大くずれにふみ止まりて支えたり、此道は高山くずれて海に入、片岸の細道、一騎打にして平らかならず」とあり、海岸に臨む地域だったことが知られていました。

 江戸時代は秋谷村となり、三浦郡になります。
 寛永10年、元禄10年、幕末ともに幕府領でした。
 『元禄役帳』では352石余。『天保郷帳』では360石余。『旧高旧領』では360石余で、そのうち正行院領が3石ありました。
 正行院は天正19年に3石の朱印地を賜りましたが、寛永17年に焼失し、慶安元年に再び朱印状を賜りました。慶安元年の寄進状写には「相模国三浦郡秋屋村 正行院領、同村之内三石之事、任先規、寄附之畢」とあります。
 『三浦古尋禄』では、家数250軒余とあります。
 『新編相模』では、江戸から16里、家数261軒、東西32町・南北31町、海浜に三崎道が通り、西は小坪村へ2里、東は和田村へ2里の継立地です。鎮守は神明社、寺院には日蓮宗妙音寺、浄土宗正行院、真言宗円乗院があります。北方の山間は、小名子安といい、正月しらずとも俗称されました。小名東久留和の海岸からは、岩塊中に異質の小石が含まれる珍しい石があり、子産石と呼ばれました。南の海岸には鵜ヶ崎・恵比寿堂崎といった出崎があり、江戸まで海上22里余を要します。伊豆大島・城ケ島などが眺望できます。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属しました。
 明治22年、中西浦村の大字名秋谷になりました。
 明治24年、戸数324、男962人、女872人でした。
 明治44年、西浦村の秋谷になりました。
 昭和10年、大楠町の秋谷になりました。
 昭和18年、横須賀市の大字秋谷となりました。

地名の由来

 

 戦国時代から見られる地名で、秋屋、または明屋とも書きました。
 収穫がア(飽)キが満チルから。また、草木の葉のアカ(紅)クなることに由来すると言われています。
 谷は山間の凹地と解釈でき、秋谷の背後の子安の里を指すものと考えられます。
 このことから、秋谷は秋空のように美しい景色の土地で、背後に山間を従えた地形だということになります。

 
葉山町下山口 葉山町上山口 湘南国際村
  秋谷 子安  
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