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横須賀市深田台


横須賀市深田台の歴史

深田台の歴史

 

砲台山 平坂貝塚、深田貝塚などの遺跡があります。
 文化会館、博物館、青少年会館、障碍者福祉センター、中央公園、竜本寺、神明社などがあります。公共施設が多いですが、現在は住宅地となっています。
 博物館は三浦半島の歴史・動植物を一覧することができ、国有形民俗文化財の三浦半島の漁労用具、県有形民俗文化財の鴨居漁労用具コレクションなどがあります。

 戦国時代から記録にある地名で、相模国三浦郡になります。
 『小田原衆所領役帳』には、小田原北条氏の半役被仰付衆小山三郎右衛門の所領役高として「廿四貫五百六十三文 深田屋敷」とあります。

 江戸時代初期、公郷村から分村し、深田村となりました。
 寛永10年は幕府領、元禄10年は上野前橋藩領、幕末には幕府領になっています。
 村高は、『元禄郷帳』では61石余、『天保郷帳』・『旧高旧領取調帳』では70石余、飛地が佐野村にありました。
 『三浦古尋禄』では、家数19軒。『新編相模国風土記稿』では、江戸から16里、東西6町、南北7町程、家数19軒、鎮守は神明社、日蓮宗竜本寺があり、山号の猿海山は日蓮渡海の時、1匹の猿が海上を先導したことに由来しています。岩窟は、日蓮三十七日行法の古跡といわれています。海中からは、ツノのないサザエが見付かっています。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県の所属となりました。
 『皇国地誌』では、戸数40、人口209、病院1、寺1、社1、漁舟6隻、農家36戸、漁業4戸とあります。
 軍港とともに、急激に発展していくことになります。
 明治22年、豊島村の大字となりました。明治36年には豊島町、明治39年には横須賀町、明治40年には横須賀市の大字となります。
 明治24年、戸数575、男1,637人、女823人。海軍病院・東京湾洋裁司令部を中心に急速に発展し、米が浜地先の埋め立て地が急速に広がりました。

 大正13年、深田町となります。
 昭和24年、一部が米が浜通、日の出町、若松町、坂本町となり、残りが深田町、上町、田戸台、不入斗町となりました。
 昭和25年、深田町、佐野町、公郷町の一部で深田台となりました。

地名の由来

   田が深かったことから。
 柳田国男によれば、「ウキは菖蒲などの生ずべき地なることで、水稲の栽培に適するという経済上の意義がある」としています。ウキ田が転じて、フケ田となり、フカ田となったのではないかと考えられています。
 台は川沿いの段丘の上の平らな高地を指します。
 横須賀市では、高台の住宅地には「台」や「丘」などの字を充てる慣習となっています。
 
  若松町 米が浜通
上町 深田台  
  田戸台 安浦町

横須賀市自然・人文博物館


横須賀市自然人文博物館 横須賀市立博物館の、自然・人文博物館です。
 入館料は無料ですし、無料のわりには展示品も充実しているので、私は好きな博物館です。

博物館前公園


博物館前公園 横須賀市自然人文博物館の前にある公園です。
 その公園に建つ、さまざまなブロンズ像などを紹介します。数が多いので、中央公園とは別ページに作成しました。

横須賀市文化会館


横須賀市文化会館 博物館や中央公園に隣接する、文化会館です。
 各種催し物を行っています。 おもに合唱、吹奏楽、ピアノの発表会などを行っているみたいです。

三浦半島の漁撈用具収蔵庫公開


三浦半島の漁撈用具収蔵庫公開 国指定重要有形民俗文化財に指定されている「三浦半島の漁撈用具」。
 1年に2回だけ、文化財収蔵庫を一般公開しています。

神明社


神明社 深田台の小さな神社、神明社です。
 外国人が彫ったのではないかと思われる狛犬があります。

横須賀高等女学校門柱


横須賀高等女学校門柱 工事の際に見付かった、横須賀高等女学校の門柱です。現在の大津高校の前身です。
 すぐ隣には、横須賀市障害者センター、横須賀市青少年会館があります。

中央公園


中央公園 博物館や文化会館と隣接している、中央公園です。中央公園の下には、京浜急行のトンネルがあります。
 大きなステンレス製平和モニュメントがあります。

龍本寺


龍本寺 とても立派なお寺、龍本寺。
 日蓮にまつわる伝説が伝えられています。

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