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覚栄寺


覚栄寺

バス停走水神社下車 徒歩3分
地図
覚栄寺
覚栄寺

 しもたぁー、失敗したぁー。覚栄寺のあるエリアは、走水神社、大泉寺、円照寺、覚栄寺と4軒の神社仏閣が立ち並んでいるため、覚栄寺の本堂の写真を撮り忘れてしまったー(^^;)。連続して4軒も見て回ったため、疲れてしまい集中力が完全に低下していましたー。写真を撮る気力も失われてしまうほど、疲れてしまった・・・
 本水山道清院と言い、浄土宗のお寺です。お寺の名前からも、水の豊富さがうかがうことができます。
 ご本尊は、阿弥陀三尊像です。
 日本武尊の東征の際に尽忠者を弔った十王洞堂跡地で、十王の木造が祭られていました。1513年(永正10年)、屋道上人が念仏を広めるための道場として開いたと言われています。1505年(永正2年)とする説もあります。
 屋道上人の奉持する三尊仏は、天照春日の作と伝えられ、奥の院として祀られています。

写真撮影:2008年04月02日

海軍覚栄寺裏山貯水池

バス停走水神社下車 徒歩3分
海軍覚栄寺裏山貯水池
海軍覚栄寺裏山貯水池

 帝都東京を防衛するために造られたトーチカかと思って写真を撮影しました。その後の調査で、海軍覚栄寺裏山貯水池だとわかりました。1895年(明治28年)に造られたと書かれている資料と、1908年(明治41年)に造られたと書かれている資料があり、どちらが正しいのか良くわかりません。どちらも横須賀市発行の試料だし(^^;)
 1876年(明治9年)、横須賀造船所の所長だったフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの手によって走水の湧水を水源として、約7km離れた造船所まで5インチの土管で水を引きました。
三浦半島観光地図:横須賀市楠ヶ浦町・横須賀海軍工廠
 横須賀軍港へ入出港する艦船への飲料水供給、造船所内の使用水量の増加に対応するため、海軍が覚栄寺裏山に新たな水源を求め、貯水池を作りました。カマボコ型のユニークな形状で、市営貯水池上屋と同様に覚栄寺裏山にひっそりと残されています。
 最初に敷設された土管は1885年(明治18年)には日本初の8インチ鋳鉄管が使用され、1902年(明治35年)には10インチ鋳鉄管と蒸気ポンプ圧送へと増強されていきました。不要になった8インチ鋳鉄管は横須賀市に払い下げられ、覚栄寺の裏山に貯水池を設け、小川町、大滝町、若松町などの住民を対象に、1908年(明治41年)12月25日に初代横須賀市長の鈴木忠兵衛の時に給水を開始し、市営水道の誕生となりました。
三浦半島観光地図:横須賀市小川町
三浦半島観光地図:横須賀市大滝町
三浦半島観光地図:横須賀市若松町
三浦半島観光地図:横須賀市大津町・水道管

写真撮影:2008年04月02日

海軍覚栄寺裏山貯水池

バス停走水神社下車 徒歩3分
海軍覚栄寺裏山貯水池
海軍覚栄寺裏山貯水池

 1902年(明治35年)、タイムマシーンに乗って完成当時の覚栄寺裏山貯水池に行ってきました。タイムマシーンを使って過去に行くと、未来を変えてしまう可能性があるので、とても気を使います。
 探してはみたものの見付かりませんでしたが、本堂の奥に「滝の井戸」と呼ばれる古井戸があります。縦4m、横2mでとても大きなものです。
 走水の水は腐らないと言われ、明治時代の初めには船を相手に四斗樽(しとだる)で水を売る商売も出現し、この「水屋」の商売は横須賀町に水道施設が作られる明治41年頃までありました。現在でも東京方面から、茶道用に貰い水に来る人もいます。

写真撮影:2008年04月02日

向井一族の墓

バス停走水神社下車 徒歩3分
向井一族の墓
向井一族の墓

 墓地の一角にある向井一族のお墓です。大きな宝篋印塔で目立つのですが、これといった説明看板などもないため、見逃してしまうかもしれません。
 江戸時代、代々の船奉行を務めた向井家の政勝系統のお墓です。「俗名向井伊兵衛」とあるのが政勝の供養塔で、古くから長墓様と呼ぶ263cmの花崗岩の逆修塔が政良のものと言われています。一族の政直、正道、半十郎のものと言われている、宝篋印塔、五輪塔、石地蔵浮彫りの碑、石灯篭などがあります。

写真撮影:2008年04月02日

大震災供養塔

バス停走水神社下車 徒歩3分
大震災供養塔
大震災供養塔

 中央にある大きな石碑が、関東大震災による犠牲者のための供養塔です。走水でも大きな被害を受け、34名の犠牲者が出ました。
 右側にある背の高い石碑は、陸軍の軍人さんのお墓です。
 左側にあるやや背の低い石碑は、木喰修行の名僧である徳本上人の花押・直筆の供養塔です。木喰観正の石塔は、近隣では鴨居の能満寺にもあります。
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・能満寺
 徳本上人は紀州の生まれで、若い時に仏門に入り、1814年(分化11年)に江戸に出て十念仏の法を受け、幕府大奥や庶民の信仰を集めました。
 木喰観正は文化・文政期に淡路より東国に下り、相模・武蔵・甲斐・信州の各地を回国して念仏講を広めた民間宗教者のことです。
 木喰観正が活躍していた頃、念仏講を広めた徳本上人がいました。徳本上人の教化活動は三浦半島に広く浸透し「徳本」と刻まれた念仏供養塔が各地にあります。徳本の念仏は木魚と鉦を交互に激しく乱打することで念仏三昧をするところに特徴がありました。それに対して観正の特徴は、加持祈祷の行為によって病気を治療したり、雨乞いをするところにあります。
 木喰観正は相模では小田原の根府川の地を基点として活躍したと言われています。

写真撮影:2008年04月02日

大震災供養塔

バス停走水神社下車 徒歩3分
大震災供養塔
大震災供養塔

 2011年3月11日、自分自身も今までに経験したことのないほどの巨大地震に襲われました。東日本大震災です。震源地は三陸沖でマグニチュード9.0でしたが、三浦半島では震度5強の揺れが3分間ほど続き、その後も数えきれないほどの余震に襲われました。
 では関東大震災の三浦半島の被害はどの程度だったのでしょうか。東日本大震災を契機として、ここにまとめてみたいと思います。関東大震災の三浦半島での被害はこれだけではありませんが、長文でも我慢して読んでね。
 1923年(大正12年)9月1日(土)11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9の大正関東地震が発生しました。その後、12時1分、12時3分に連続して地震が発生したため、5分以上の揺れが発生しました。3つの地震が連動して起きた東日本大震災に良く似ています。
 横須賀市内では死者683人、負傷者897人。全壊家屋8300戸、全戸数1638150.7%が全壊。山手の平坂上、中里では、倒壊率90%に及び、道路の両側の家屋が潰れて瓦礫が散乱し、通行不能状態となってしまいました。
 横須賀市内数ヵ所から火災も発生し、大滝町などは焼き尽くされ、全半焼4700戸で全戸数の28.7%を占めました。水道は断水し消火活動が行えず、海軍・陸軍部隊の出動で翌日の9月2日午後5時頃にようやく鎮火しました。
 区裁判所、三浦郡役所、小学校3校、市立病院も全壊。高等女学校1校が半壊。小学校6校が大破。有名な寺社20以上が全半壊。第二銀行支店はじめ銀行5行、深田台の海軍病院。
 横須賀軍港では、重油タンクが炎上。港内やドック内の軍艦、海軍工廠の建物も被害を受けました。その他の海軍・陸軍施設も全壊、半壊、大破、全焼などの被害を受けました。
 崖崩れやトンネル崩壊も発生。田浦駅近くのトンネルでは走行中の列車が埋没。崖崩れにより軍港側の港町通りで犠牲者58人。
 津波は震源地に面した三浦半島の西側、三崎、逗子、鎌倉で被害が発生しました。三浦で6mの津波が発生したと記録されています。
 三浦半島全域で、地盤の隆起が起こりました。
 東京や横浜であったとされる朝鮮人殺害事件は、軍都であり早くから海軍・陸軍の出動により治安が維持されたこと、練兵場に仮設住宅を建て朝鮮人を非難させたため、起こりませんでした。このため多くの朝鮮人が横須賀に避難してきました。これは朝鮮人が放火して回っている、井戸に毒を入れたなどのデマが原因でした。三浦半島が水没したというデマもありました。

写真撮影:2008年04月02日

六地蔵

バス停走水神社下車 徒歩3分
六地蔵
六地蔵

 六地蔵なんですが、数えてみると七地蔵。左側の1体は、極端に大きさが異なるので、違う時代に造られたものでしょう。地蔵といっても、地蔵の形をしていないんですよねー。
 中世では関西に多かった石地蔵ですが、近世になると関東で多く作られるようになりました。大人〜子供まで、村人たちに親しまれてきた地蔵です。
 六地蔵は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道、どこにいても救いの手を差し伸べる六道救済のための地蔵です。6つの分身として彫刻される六地蔵の石仏は室町時代からはじまり、江戸時代にはさまざまな形状で作られるようになりました。
 六地蔵は種類が多いのが特徴で、別石六地蔵、舟形浮彫り六地蔵、六面幢六地蔵、一石六地蔵、一石二段六地蔵、一石三面六地蔵、舟形二段六地蔵、角柱六地蔵などがあります。

写真撮影:2008年04月02日

石仏

バス停走水神社下車 徒歩3分
石仏
石仏

 覚栄寺で撮影した石仏なのか、すぐとなりの円照寺で撮影した石仏なのか。それとも、覚栄寺と円照寺の中間地点で撮影した石仏なのか。忘れてしまった・・・
三浦半島観光地図:横須賀市走水・円照寺
 石仏と言っても、時代によってその性格が異なります。古代では中国・朝鮮の文化の影響を受けています。中世になると有力者・武士が造立することが多くなります。近世になると、農民・庶民の信仰と結び付いた庶民的石仏が多くみられます。文化財などに指定されていない石仏は、近世の江戸時代以降に造立されたものです。
 庶民の間では観音菩薩や地蔵菩薩への信仰が、大衆的な流行をみせ、多種類の石仏が造立されるようになりました。寺の本堂で礼拝する対象ではなく、庶民の日常生活を支えるものであり、墓標としての石仏ともなりました。
 庶民の信仰としては、庚申塔、道祖神など路傍の石仏が造立されます。講を背景とした集団の存在がうかがえます。墓石には観音菩薩や地蔵菩薩などの諸相が彫られています。

写真撮影:2008年04月02日

石仏

バス停走水神社下車 徒歩3分
石仏
石仏

 同じく、どこで撮影したのか忘れてしまった・・・。こんな時、GPS機能の付いたデジカメだと正確な場所がわかるので便利なんだけど。でも誤差1m程度にならないと、使い勝手が悪いので実用的じゃないですね。
 多く作られた石仏の中には、さまざまな挿話やご利益が付与され、素顔のままの庶民信仰を感じさせます。日本各地でみることができ、場所によっては同じ種類の仏が集中していることもあります。
 三浦半島では、庚申塔が集中しています。これはそれぞれの地域で布教活動を行っていた集団による影響を色濃く受けていると考えられます。
 まれに石工の名が刻まれていることもあり、近世の石工の問題が石仏研究の一視点ともなっています。

写真撮影:2008年04月02日
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