東逸見町の歴史
三浦半島の東部に位置し、東端は横須賀本港に面しています。
かつては谷戸の奥の方まで海が入り込んでいました。
戦国時代から確認できる村名で、相模国三浦郡の逸見村になります。
『新編相模』三浦郡巻9には、「天正2年の胸札を蔵す、文に・・・相州三浦横須賀郷之内、逸見村百姓中并代官」とあり、逸見村は横須賀郷に含まれていたことがわかります。
江戸時代は三浦郡の逸見村でした。
寛永10年は幕府領、元禄10年は上野前橋藩領、幕末は幕府領でした。
村高は、『元禄郷帳』では220石余、『天保郷帳』、『旧高旧領』では379石余でした。
慶長5年〜寛永11年頃まで徳川家康の外交顧問だった三浦按針が220石の知行を受けており、晩年は逸見村の浄土寺の南に屋敷を構えていました。「我死なば江戸を一望すべき高き地に葬るべし、さあらば永く江戸を守護し奉り将軍家の御厚恩を黄泉の下に報ひ奉らん」と遺言を残し、山背の浦賀道の山上の神奈川・羽根田・品川を一望できる地に夫妻の墓があります。嘉永5年〜嘉永6年頃、安藤広重もこの道を通っており、その時の逸見山中のスケッチが『武相旅絵日記』に記載されています。
『新編相模』によれば、江戸から15里、東西15町・南北20町、家数117軒。鎮守は鹿島社で、寛永13年8月に再建の棟札に第2世三浦按針の名前があります。寺院には浄土真宗浄土寺、浄善寺、真光寺、浄栄寺があり、浄土寺には按針の守護仏という観音像が伝えられていました。
村の形態は農村で、いくつかの谷戸の田畑を耕作し、稲粱、桑茶の作付けに土質は合っていましたが、しばしば水利不便で干害に悩まされました。山には雑木林が多く、吉倉谷戸では杉林があり薪炭には恵まれていました。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属しました。
明治9年、逸見に設置された水兵屯集所は、のち東海水営本営と改称し、大正6年に楠ヶ浦に移転しました。
明治22年、横須賀町の大字となりました。横須賀線横須賀駅が設置されました。
明治40年、横須賀市の大字となりました。
大正13年、横須賀市の町名で逸見町となりました。
昭和3年、横浜市杉田から逸見町汀橋間の31号国道(現在の国道16号)が開通しました。
昭和5年、湘南電気鉄道(京浜急行)の黄金町〜浦賀間の開通により、逸見駅が設置されました。
昭和24年、一部が汐入町1丁目〜5丁目、坂本町1丁目〜6丁目になりました。
昭和25年、一部が東逸見町1丁目〜4丁目、西逸見町1丁目〜3丁目、吉倉町1丁目〜2丁目、山中町になりました。
昭和27年、一部が長浦町3丁目となりました。
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地名の由来
逸見の地名は海辺の地形に由来しています。
また、鎌倉時代の建保の乱に登場する逸見二郎の所領であったことから。
アイヌ語では山から海を見下ろすことを「ハエ・ムイ」と言い、次第に幅広く傾いた丘のことを指すようになっていきました。この「ハエ・ムイ」が「ヘミ」や「ヘンミ」になったとする説もあります。
西は西部のこと、東は東部のこと。
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