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平作の歴史 |
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三浦半島の中央部、大楠山の東、平作川上流域にあります。
鎌倉時代、平佐古為重の居住地と言われています。
南北朝時代から見られる地名で、相模国三浦郡になります。
応安6年4月5日の室町幕府管領奉書に「相模国鴨江・平佐古<三浦一族等跡>」とあり、上杉能憲に替不足分として与えられています。
応永3年7月23日の室町幕府管領奉書でも、「平佐古」などの上杉氏所領は家督の憲定に安堵され、幕府の承認を得ています。
戦国時代、『役帳』に、小田原北条氏の御馬廻衆である岩本太郎左衛門の所領役高として「九十六貫六百文 三浦 平佐久」とあります。
江戸時代、相模国三浦郡の村名・平作村となりました。古くは平佐久村と書き、正保改定図にも平佐久村とあります。延宝年間に上平作村・下平作村を分村し、以後、平作村と書くようになりました。
元禄改定図にも村名があり、「天保郷帳」では池上村の項に「古者平作村」とあり、元禄年間以降は池上村と改称されました。
寛永10年、幕府領です。
村高は、『元禄郷帳』では278石余とあります。
明治8年、三浦郡の村名で平作村となりました。 上平作・下平作・池上の3ヶ村が合併して、平作村となりました。
『皇国地誌』では、税地は286町余うち田75町7反余・畑46町3反余・山林154町余・宅地9町1反余など、戸数143、社10、寺6、人口739うち男の農業従事者348・商業6・雑業42、牛51・馬46、物産は横須賀へ輸送しました。
明治22年、衣笠村の大字となりました。
明治24年、戸数158、男478人・女448人。
昭和8年、横須賀市の町名となり、平作町・阿部倉町・池上町となります。
昭和24年・昭和25年、一部が衣笠栄町となりました。
昭和42年、一部が小矢部となりました。
昭和43年、残余が平作・金谷・池上となりました。 |
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地名の由来 |
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平佐久・平佐古とも書きました。
平は開くの当て字で、「サコ」は入り組んだ地形、小さな谷・山の中段などを指します。
また、古代の氷蛭郷の迫のことで、氷蛭迫の転訛とする説もあります。 |
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