衣笠町の歴史
三浦半島の中央部で、大楠山の東方に位置します。
三浦氏の居城衣笠城址があります。康平年間に三浦為道によって築かれたと伝えられ、治承4年の衣笠城合戦の舞台となりました。
『新編相模』で見られる荘園の衣笠荘(きぬかさのしょう)は、現在の衣笠町だけではなく、逗子市・葉山町・横須賀市中部〜北部・三浦市の広いエリアになります。
鎌倉時代から確認できる地名で、相模国三浦郡の衣笠になります。
『吾妻鏡』治承4年8月26日条に、平氏方の畠山重忠が源氏方の三浦氏を襲撃するという風聞があり、「一族悉以引籠干当所衣笠城、各張陣」とあります。
『平家物語』、『源平盛衰記』にも、「衣笠城合戦之事」、「衣笠合戦事」とあります。
平安時代末期から鎌倉時代の宝治元年頃まで三浦氏が支配していましたが、三浦泰村の乱で惣領家が滅ぼされたのちのことは領主は不明となっています。戦国時代になると、『役帳』に小田原北条氏の半役被仰付衆高橋平左衛門の所領役高として「五拾貫文 衣笠」とあります。
江戸時代以降、三浦郡の衣笠村になります。
寛永10年は幕府領、元禄10年は武蔵忍藩領、幕末には幕府領になります。
文禄3年、代官長谷川七左衛門長綱によって検地が行われました。
村高は、『元禄郷帳』では183石余、『天保郷帳』では196石余、『旧高旧領』では183石余うち不動堂領2石とあります。天正19年の徳川家康寄進状写には、「不動 相模国三浦郡 衣笠郷之内 弐石」とあります。
農村で、生業の農業のほか、採薪を行っていました。また、女性たちによって木綿糸取り機織りが行われていました。天保8年のアメリカ船モリソン号の浦賀来航以後、村民は江戸湾口防衛強化のため、大津陣屋から上宮田陣屋まで、物資運搬の夫役に狩り出されることが多く、その負担はとても大変だったと言われています。
『三浦古尋禄』によれば、家数40軒。
『新編相模』によれば、江戸から18里、東西14町、南北11町。小矢部村と大矢部村に飛地があります。
鎮守は金峯蔵王権現で天平元年の勧請と伝えられています。不動堂は衣笠城址にあり、蔵王権現の本地仏不動明王が祀られています。ほかにも、不動堂の別当曹洞宗大善寺と福寿院があります。
文政4年から浦賀奉行所支配となります。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。
『皇国地誌』によれば、税地は159町9反余うち田20町余、畑11町1反余、山林122町1反余、宅地1町9反余など、戸数43、人口187、男101、女86、牛10、馬11。民業は農業25戸、商業2戸、工業3戸、雑業7戸など、女性は農間に木綿糸とり52人、薪とり28人、物産は横須賀町へ輸送していました。
明治22年、三浦郡の自治体名で衣笠村となりました。衣笠、小矢部、大矢部、森崎、金谷、平作の6ヶ村と佐野村飛地、不入斗村飛地が合併して成立しました。飛地を除く旧村名を継承した6大字が編入されました。
村の生活形態は農業中心で、平作川流域の水田地帯と大矢部川流域に水田地帯がありました。このほか、海軍工廠に勤めている人もたくさんいました。
明治24年、戸数397、男1138人、女1098人。衣笠は戸数40、男104人、女100人。
大正6年、戸数763、人口3969。
大正9年、世帯数853、人口4098。
昭和8年、横須賀市の一部となりました。村制時の6大字は衣笠町、小矢部町、大矢部町、森崎町、金谷町、東金谷町、西金谷町、平作町、池上町、阿部倉町となりました。
昭和42年、一部が小矢部1丁目〜4丁目となりました。
昭和50年、一部が大矢部4丁目となりました。
昭和52年、一部が大矢部1丁目〜3丁目・5丁目〜6丁目となりました。
昭和56年、人口1260人です。
地名の由来
『新編相模』によれば、「村の四方山々に包れ山形笠に衣を掛けたる如くなれば名とせり」とあります。
また、衣笠城址のある山の形が笠を伏せたように見えることから、衣笠城址のある山が古代の殯の地から名付けられたとも言われています。
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