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内川新田は、砂村新左衛門政次(すなむらしんざえもんまさつぐ、大阪or越前出身)が幕府の許可を得て、1660年(万治3年)〜1667年(寛文7年)までかかり完成しました。幕府は貧困にあえぐ農民のために、新田開発を奨励していました。
もともとこの場所は、佐原や舟倉あたりまで葦原や沼地で水が多く、干満による海水の浸水もあり、排水も困難で工事は難航しました。そこで、旅人が人柱となったともいわれています。もっとも苦労したのが水門建設だったそうです。
この新田開発によって360石余りの生産高が得られ、さらに数年後には225石の増加がありました。横須賀市内の最大の新田工事となりました。面積はおよそ99万平方メートルになります。
砂村新左衛門は当時では数少ない土木事業指導者で、東京の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの新田開発にその手腕を発揮しました。
内川新田が完成してすぐの、寛文7年12月15日になくなりました。お墓は久里浜の正業寺にあります。
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・正業寺
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜〜久比里・夫婦橋 |
| 撮影:2006年09月10日 |
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住所でいえば、内川新田は非常に狭い範囲になりますが、砂村新左衛門が開発した内川新田は実はかなりの広い面積になります。
おおよその場所ですが、JR横須賀線と京急の線路よりも海側一帯の平地のほとんどが、内川新田にあたります。
この石碑、実は砂村新左衛門が自分で建てた石碑のようです。碑文には「南無阿弥陀仏霊厳寺大誉」と刻まれています。工事によって亡くなった人を供養するために建てられたものと思われます。そういった意味で考えると、「内川新田開発記念碑」という記念碑的な存在ではなかったと思います。廃寺同然の寺を復興したり、天神社を建てたりしたことなどから、信心深い人物であったのではないかと思われます。
記念碑の側面には、たぶんハスの花かなーと思われる植物が描かれています。一生を水との闘いで終えた砂村新左衛門らしいとも言えますし、神仏との繋がりの深い植物ではるハスが描かれていることなどからも、供養塔的な意味合いの方が強かったのではないでしょうか。
三浦半島の歴史:人物事典・砂村新左衛門 |
| 撮影:2006年09月10日 |
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