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350回忌記念講演「砂村新左衛門の生涯」
350回忌記念講演「砂村新左衛門の生涯」
砂村新左衛門の350回忌を記念して開催されることになった「砂村新左衛門の生涯」。
1667年、内川新田の祈念碑を建立した年に亡くなった砂村新左衛門。全国区では知名度のない砂村新左衛門ですが、久里浜地区の内川新田を開拓した人物です。横浜の吉田新田の開拓にも協力したと言わています。
江戸時代の初期に活躍した砂村新左衛門の波乱の人生を詳しく解説します。
・日時:2016年12月10日(土)14:30開始
・場所:久里浜行政センター3階のコミュニティセンター集会室
・講師:久里浜古文書の会の溝手正儀
久里浜行政センター|横須賀市久里浜
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砂村新左衛門|人物事典
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なお、久里浜古文書の会では砂村新左衛門350回忌記念行事を行いました。
記念講演として、砂村新左衛門の波乱の生涯について詳しく講演する「砂村新左衛門の生涯」を行いました。
砂村新左衛門の生地福井県の県花「越前水仙」の球根を福井県からいただき、夫婦橋(新左衛門建立の石碑前)、正業寺(新左衛門が再興した寺院)、天神社(新左衛門が創建した神社)に植え付けました。毎年、命日の12月15日ごろに清らかな花を咲かせてくれる予定です。
つどい展示では新左衛門の生地と開拓した新田の絵図の展示、つどい体験会では新左衛門が子孫に遺した遺訓の読解体験を行いました。
久里浜天神社|横須賀市久里浜
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スイセンの育て方|草花・鉢花
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・砂村絵図
越前国今立郡の横越村と下新庄村の間の砂畑(通称)を福岡新兵衛(砂村新左衛門の伯父と推定)が天正年間に開拓して新村(現在の鯖江市新町)としました。新左衛門はその後の慶長6年頃に新村で生まれたと推定されますが、絵図が作られたのは新左衛門が村を出たずっと後の文政年間です。
・砂村新田絵図
武蔵国西葛西郡の宝六島あたりの洲を新左衛門が開拓し、万治2年に検地を受けました。当初は宝六島新畠と呼ばれていましたが、のちに砂村新田という村(現在の江東区南砂ほか)になりました。絵図は延宝5年の出入(新三郎と新四郎の土地所有をめぐる裁判)において作成された裁許(判決)資料で、所有・管理の区分が色分けされています。
・吉田新田絵図
武蔵国久良岐郡の釣鐘状の入海を江戸の木材商吉田勘兵衛が開拓した際、砂村新左衛門が技術(土手や樋門などの設計)を担当しました。万治2年に着工し、寛文7年に検地を受けました。野毛新田と呼ばれていましたが、のちに吉田新田という村(現在の横浜市中区と南区の間、伊勢佐木町、長者町、吉野町など)になりました。絵図の作成時期はわかっていません。
・内川新田絵図
相模国三浦郡の内川入海などを砂村新左衛門が開拓しました。寛永年間ごろから開拓を考えていましたが、着手したのは万治年間で、万治3年に検地を受けました。夫婦橋のあたりに樋門を設置し上流の沼地(内川入海)を干拓するとともに、下流域(八幡原)を土手で護って農地化した内川入海新田と八幡原新畠は合わせて三浦新田と呼ばれましたが、のちに内川砂村新田(のちに内川新田)という村(現在の久里浜など)となりました。絵図は延宝7年に砂村新田と同様の出入があった際に作成されたもので、砂村新田絵図と同様に所有区分が色分けされています。
350回忌記念講演「砂村新左衛門の生涯」の写真
今回の講演のパンフレットです。
以前から気になる存在だった砂村新左衛門ですが、資料を探してもなかなか見つけられず、どのような人物だったのはハッキリとしませんでした。
もっと詳しいことを知りたいと思っていたところに講演があることを知ったので、とても良いタイミングだと思い参加してみることにしました。
江戸時代に久里浜地区の平地の多くを開拓した人なので、とても気になる人物でした。
講演の内容は砂村新左衛門を中心として、彼に関係した人々の生涯についても解説していただきました。
川越藩主で老中にもなった松平信綱、徳川家康の孫で福井藩主の松平忠昌、横浜の吉田新田を開発した吉田勘兵衛、材木問屋を営んでいた河村瑞賢に焦点を当て、同じ時代の人々がどのようなことをしたのか、砂村新左衛門との関係など。
その時代の出来事、時代背景なども解説していただきました。人口が増加し始め、新田開発が活発に行われた時代でした。
だいたい30人〜40人くらいの方が講演を聞きに訪れました。
正面に立っている方が、今回の講演の講師を務めていただいた久里浜古文書の会の溝手正儀氏です。
郷土史関連の講演に参加していると、他の講演でも見たことのある人が何人かいたりします。
久里浜コミュニティセンターの3階に、こんなに広い場所があったなんてしりませんでした。
小学校の体育館のような部屋で、イスはみんなで協力して準備・片付けを行いました。
内川新田の絵図です、デカい!!
それもそのはず、現在の内川新田の町名は狭い町域になっていますが、横須賀市に併合される前は、現在の久里浜1丁目・4丁目・5丁目・6丁目・舟倉の大部分、池田町や久比里の一部も含む広大なエリアでした。
内川新田って入り江を埋め立てたんだと思っていましたが、干潟のようになっていた入り江を埋め立てたみたいです。
個人的には久里浜の地形ってとても興味があるんです、夫婦橋では人柱伝説があったり、平作川が氾濫したり、関東大震災で隆起したり。新田開発によって造られた土地だと思っていたら、神明町のあたりから埴輪が出土していたり、怒田城があったりとか。
内川新田の絵図のほかにも、横浜の吉田新田、東京の砂村新田、生まれ故郷の新村の絵図が展示されていました。
みなさん興味津々で見学をしていました。
やっぱり気になるのは地元の内川新田ですよねー、どこが現在のどの場所に当たるのかなどを見入っていました。
砂村新左衛門の350回忌記念行事として植栽された福井県の花の越前水仙です。
久里浜古文書の会と野比水仙の会の協力によって実現しました。
内川新田を開拓し、天神社を創建した砂村新左衛門の聖地福井県から送られた越前水仙を植え強度の偉人に感謝します。日本三大水仙群生地のひとつ越前海岸の清楚雄大な景観は新左衛門の「世に尽くし人に尽くす」精神を育みました。
砂村新左衛門350回忌記念行事で植え付けられたスイセンです。
場所は久里浜天神社の入り口に神社の由来が書かれた看板がありますが、そのすぐ下になります。
砂村新左衛門の故郷からやってきたスイセンです。
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