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浦賀港


浦賀港

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
地図
浦賀港
浦賀港

 すっかり綺麗になりましたねー。浦賀港周辺は、かなり時間がかかっていますが整備されてきています。
 このあたり、以前はどうなっていたんだっけ?近寄りがたい雰囲気の場所だったような記憶があります。

写真撮影:2009年04月13日

案内板

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
案内板
案内板

 ここの海岸線は浦賀の海の玄関口になっていて、歴史を語るうえで重要なスポットになります。
 L字形の桟橋は「陸軍桟橋」と呼ばれていて、昭和10年代にできたものです。太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引き揚げ者数十万人が上陸し、帰国の第一歩を記しだ思い出の桟橋です。
 1721年(享保6年)、浦賀奉行所の主要機関の船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所になっていました。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながりました。

写真撮影:2009年04月13日

浦賀港引揚記念の碑

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
浦賀港引揚記念の碑
浦賀港引揚記念の碑

 1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争は終結しました。ポツダム宣言により、海外の軍人、軍属および一般邦人は日本に送還されました。ここ浦賀港も引き揚げ指定港として中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れました。
 引き揚げ者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出しました。翌21年、華南方面からの引き上げ船内でコレラが発生しました。以後、続々と感染者を乗せた船が入港しました。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸し、有史以来かつてない大防疫が実施されました。この間、祖国を目の前にして多くの人々が船内や病院で亡くなるという悲劇がありました。昭和22年5月、浦賀引き揚げ援護局の閉鎖で、この地の引き上げ業務も幕を閉じました。
 再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引き揚げの体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念して、市政百周年にあたりここに記念碑を建立しました。

写真撮影:2009年04月13日

陸軍桟橋

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
陸軍桟橋
陸軍桟橋

 やっとの思いで日本に戻ってきた太平洋戦争の引き揚げ者たちが、最初に踏んだ日本の土地です。日本の土ではないかもしれない、だって、土製じゃないから(^_^;)
 引き揚げ者の人々は、どんな気持ちで船に乗り、この浦賀の地まで戻ってきたんだろう。
 戦争で命を失わずに何とか生き残り、終戦を迎えても日本に帰ることができず。やっと船に乗ったかと思えば、船内では疫病が発生し、目の前に日本本土が見えているのに上陸できない。船内で待たされれば待たされるほど、自分も疫病に感染してしまうかもしれない。
 こんな極限状態で精神を保つことができたのだろうか。どれほどの苦痛だったのだろうか。そんなことを考えずにはいられません。

写真撮影:2009年04月13日

陸軍桟橋

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
陸軍桟橋
陸軍桟橋

 現在は釣り人が多い場所です。浦賀港はとても大きな港湾施設ですが、竿を出せるポイントは意外と少なかったりします。立ち入り禁止になっていたり、水深がなかったりします。
 釣りをしている人は、この地が太平洋戦争の引き揚げ者たちが上陸した場所だなんて考えないんだろうなー。
 私の祖父も、中国から帰還したとき、ここの桟橋から日本に帰ってきました。軍艦の給仕係をしていたらしいのですが、船の名前を聞き損ねたまま他界してしまいました。
 だって、日常の煩雑なこととから離れたくて釣りをしに来ているわけだから、そんなことまで考えていたらせっかく釣りに来たのに、楽しめなくなっちゃいますよね。

写真撮影:2009年04月13日

船番所跡

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
船番所跡
船番所跡

 このあたり、住友重機械工業の設計ビルが建っていた場所です。
 浦賀奉行所の出先機関で、1721年(享保6年)から明治5年まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積み荷の検査をする船改め(ふなあらため)が行われ、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余りが、昼夜を通して実務を担当しました。
 入り鉄砲に出女を取り締まる海の関所としても、重要なものでした。

写真撮影:2009年04月13日

物揚げ場

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
物揚げ場
物揚げ場

 水深があるためか、この辺りは釣りをしている人が多いです。
 ガット船が多く停泊しているため、ガット船桟橋とかガット船岸壁とか呼ばれているみたいです。
 船の出入りもあるので、そういった時には移動しないといけないですね。

写真撮影:2009年04月13日

第三十七明力丸

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
第三十七明力丸
第三十七明力丸

 砂利運搬船の第三十七明力丸です。浦賀港には砂利運搬船が多いです。
 どこからどこに運んでいるのか、良くわかりませんが。
 総トン数:299トン
 全長:57.0m
 全幅:11.5m
 最大搭載人員:船員6人
 竣工:1988年(昭和63年)4月
 建造造船所:向島造機株式会社
 馬力:1600馬力×1基
 船主:若竹海運建設有限会社
 2015年(平成27年)に売りに出されているので、船主は変わっているようです。

写真撮影:2009年04月13日

第二十五大勝丸

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
第二十五大勝丸
第二十五大勝丸

 砂利運搬船の第二十五第勝丸。クレーンのバケットがあるから、ガット船って呼ばれることもあります。
 浦賀港に停泊しているガット船は、どこい行ってどこに向かうのかとても気になるので、一度乗船してみたいです。
 総トン数:451トン
 全長:48.5m
 全幅:11.0m
 竣工:1989年10月
 船主:有限会社大勝運輸

写真撮影:2009年04月13日

第十八都丸

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
第十八都丸
第十八都丸

 砂利運搬船の第十八都丸です。クレーンのバケットが積まれているので、ガット船とも呼ばれます。
 熊本県、三角町って書いてありました。都丸なだけに、ファンネルマークも都に丸です。
 総トン数:373トン
 全長:48.0m
 全幅:11.5m
 船主:福洋海運有限会社
 造船所:天草造船
 竣工年月:1991年3月

写真撮影:2009年04月13日

第一中央丸

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
第一中央丸
第一中央丸

 たぶん、第一中央丸だったはずです。やっぱり、砂利を運搬するガット船です。
 このあたりの岸壁、釣り人たちからは「ガット船桟橋」とか「ガット船岸壁」って呼ばれたりすることもあるみたいです。
 写真を撮りに行った時も、釣りをしている人がたくさんいました。

写真撮影:2009年04月13日

星春丸

バス停浦賀病院前下車 徒歩1分
星春丸
星春丸

 プロダクトタンカーの星春丸です。
 外洋航海する大型タンカーではなく、石油化学製品を製油所から消費市場の近くまで輸送するのがプロダクトタンカーです。
 総トン数:190トン
 認定トン数:415トン
 2013年(平成25年)10月、シンガポールに売却されたようです。1993年(平成5年)に完成した船だったみたいです。

写真撮影:2009年04月13日
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