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横須賀市武


横須賀市武の歴史

横須賀市武の歴史

 

 三浦一族に武次郎義国らの名前があり、武氏の居住地となっていました。
 一騎塚に武次郎義国の伝承があります。

 室町時代のころ、年不詳ながら2月4日の鎌倉公方足利持氏書状に、「相州竹・林事」とあり、醍醐寺地蔵院大僧正に付与されたことが分かります。
 文安5年以前のものと思われる清浄光院法印御房宛の2月1日上杉持朝書状には、「法華堂御領相州三浦郡武・林四ヶ村・・・事、近年非御成敗之由承候」とあります。
 文安5年12月30日の室町幕府奉行人連署奉書では、「法華堂領相模国三浦郡<武 津久井 林 須加利谷>四ヶ村事・・・可返付」とあり、地蔵院門跡雑掌宛に伝えられており、鎌倉法華堂領の知行地となっていましたが違乱があったので、醍醐寺地蔵院に返付されています。
 宝徳2年10月11日の室町幕府領奉書案に、「醍醐寺地蔵院領相模国武・林四箇村事、一式伊予守強入部云々」とあり、一式を退け判門田祐元に沙汰付けるように上杉憲忠に命じています。
 年不詳ですが卯月3日の将軍御内書案でも、「当門跡領相州四箇村代官職事、早速被沙汰付判門田壱岐入道候者、可為本意候也」とあります。
 同じく年不詳の卯月3日の長紹書状案は判門田宛のもので、「三浦武・林四ヶ村事・・・不日ニ被請取下地、其分可有御披露候」とあります。
 享徳3年3月15日、某武・林等四箇村年貢請文案には、「請文 預申右大将家法花堂領相模国三浦郡武・林四箇村事 右、御年貢毎年京納佰五拾貫文」とあり、当村など4ヶ村の年貢を毎年150貫文京納することが書かれてあります。この請文を提出したのは、代官の判門田祐元だと考えられます。

 天正18年卯月、豊臣秀吉禁制が「相州三浦武之郷東漸寺」宛に出されており、秀吉は小田原攻めに際してこの地掌握しようとしていたことが分かります。

 寛永10年は幕府領、元禄10年は武蔵忍藩領と旗本有馬氏の知行、幕末には幕府領になっています。
 「元禄郷帳」では427石余、「天保郷帳」では425石余、「旧高旧領」では422石余でうち浄土宗東漸寺領が3石です。天正19年の徳川家康寄進状写には、「東漸寺 相模国三浦郡 武之郷之内 参石之事」とあります。
 「三浦古尋禄」では、家数90軒余とあります。
 「新編相模」では、江戸から16里、東西25町・南北8町ほど、家数101軒、鎮守は三島社、寺院には東漸寺のほか支院の西福院・光泉寺があります。
 武山山頂の不動堂は、もとは武山のふもとに所在した寺で、 文禄3年に東大寺沙門万立が関東行脚の時にこの草案で暮らし、瑞夢によって不動明王像を彫刻して本尊としました。その後、天和3年に武山の頂上に移して堂宇を建立し、東漸寺の末寺となりました。武山は三浦郡内で2番目に高い山で、上総・下総・江の島・箱根・伊豆などを望むことができました。

 明治22年、須軽谷・武・林・太田和の4ヶ村と長井村の飛地が合併し武山村が誕生し、大字となりました。
 明治24年、戸数106、男312人、女292人でした。
 昭和18年、横須賀市の大字となりました。

地名の由来

   竹とも書かれていました。
 
太田和 山科台 衣笠町 大矢部
岩戸
光の丘
須軽谷 津久井 長沢

武山不動


武山不動 武山の山頂にある武山不動。

武山初不動


武山初不動 毎年、1月28日に行われる武山初不動。
 みなさん、麩菓子がぶら下げられたササを買って帰る風習があります。

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