正岡子規の生い立ち |
慶応3年(1867年)、王政復古の大号令が発表された年に生まれました。当時の伊予温泉郡、現在の松山市新玉町に生まれ、本名は正岡常規(まさおかつねのり)といいます。
松山中学校に通い、「余の目的は何なりしかといへば、政治家とならんとの目的なり」という言葉通り、政治家になることを夢見ていました。
しかし、その夢は断たれ、一転して哲学を志すようになります。政治という現実的なものに代わり、哲学があらゆるものの上位に位置すると考えていたようです。
ふたたびその夢は破れ、文学を本格的に志すようになりました。そのきっかけに哲学を学んでいたことがあったようです。文学に最高の価値を見出すようになりました。
「神聖なり、絶対なり、高尚なり、超絶なり」(文学漫言に記載されています。キテレツ大百科ではありません)
ちょっと誇大妄想っぽい気もしますね(^^ゞ |
洋画家から写実主義 |
明治25年(1892年)、新聞『日本』に掲載した『獺祭書屋俳話』(だっさいしょおくはいわ)という俳句論を発表します。
その中で、明治維新という大きな社会変化を引き合いに出し、社会の変化とともに、文学の世界も変化するものであり、文学の変化を社会の変化にうまく適応させることの結果として、進化論的に優れた文学が生まれていくものだとうい考え方を発表しました。う〜ん、難しい・・・
明治26年ごろ、中村不折、浅井忠らの洋画家と知り合い、写生に開眼し、これを俳句の制作にも応用することを主張します。これが正岡子規の写実主義の源になりました。 |
34歳で亡くなりました |
わずか34歳の短い生涯での絶筆となった『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく)に残された闘病の記録の中で、
「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きていても何の面白みもない」
と綴っています。闘病生活のむなしさや、悲しさが伝わってきますね。
正岡子規は明治22年(1889年)5月に喀血し、血を吐くまで鳴き続けると言われているホトトギスにちなんで、ペンネームを「正岡子規」としました。
家庭の医学:肺結核とは? |
三浦半島との関わり |
明治21年(1888年)8月、正岡子規は横須賀を訪れています。当時は第一高等中学校の学生でした。
正岡子規は夏休みを利用して、同級生の佐々田採花と浦賀から横須賀方面にかけて、旅行をしました。このときに詠んだ句が、平成3年にヴェルニー公園に建てられています。
『横須賀や 只帆穡の 冬木立』
夏に詠んだ句ですが冬の季語が使われ、海上に林立する艦船のマストが、冬枯れの木々のように写ったのでしょう。
この句は、句集『寒山落木』に収録されています。
歴史:横須賀市汐入町・ヴェルニー公園 |
野球との関わり |
俳人として知られている正岡子規ですが、野球にまつわるエピソードも残されています。
野球はベースボールとしてアメリカ人のウィルソンが開成学校で教えたのが始まりだといわれています。
正岡子規の第一高等中学校では野球が学生の間で流行し、ユニフォーム姿の写真を友人に送ったときの自分の雅号を「野球」(のぼーる)としています。正岡子規の幼名「升」(のぼる)にちなんだシャレです。
新海非風(にいのみひふう)との合作野球小説『山吹の一枝』には、野球のルールが紹介されています。その中に、打者、走者、死球、飛球など、今でも使われている野球用語が多数翻訳されており、文学のみならず、野球の普及にも貢献しました。
そして2006年、日本の野球は世界の頂点に達しました。 |
|
|