砂村先祖伝書の存在 |
1665年(寛文5年)に記されたという、『砂村先祖伝書』という伝書が存在しています。
これは浦賀の宮井家に所蔵されていたことから、砂村新左衛門の自筆のものと考えられています。浦賀の宮井家は、文化年間に砂村家から内川新田を譲り受けた家柄です。 |
出生には謎がおおくはっきりとしない |
砂村新左衛門の出身地などに関しては、詳しくはわかっていません。
『新編相模国風土記稿』によれば(と言っても、原本は見たことありませんが)、大阪の上福島の出身と書かれています。
越前藩の『御家御代々記』によれば、福井県鯖江市(越前国砂畑()の出身とされています。
『砂村先祖伝書』でも出生については記されていませんが、「田夫野人の生まれつき」と記されていることから、農民の出身であることは間違いないようです。 |
若い頃から諸国を行脚 |
『砂村先祖伝書』によると、「京都、大阪、堺、四国、西国、北国、関東、大方廻り国々所々物事一覧仕り候」と記されています。
若い頃より諸国を回り、土木工事や農業の技術、知識を身につけたものと思われます。
しかし砂村新左衛門が諸国を回っている頃は、年齢から察すると関ヶ原の合戦も終わり、大阪の陣も終わり、平和が訪れた頃。この頃に農民の出身の者が、諸国を回って見聞を広げるというのは不自然な気がします。 |
横浜の野毛新田の成功を機に内川新田開発に挑戦 |
その後、江戸深川に移り住み、吉田勘兵衛が手がけた横浜野毛新田(吉田新田)の開発に加わり成功させました。その経験を生かし、万治年間(1658年〜1661年)、内川入江の開墾を計画しました。
当時の内川入江は、佐原や舟倉あたりまで、葦の繁茂した湿地帯でした。この頃の農村は、天災と凶作で貧困のどん底にあえいでいたこともあり、徳川幕府は新田開発を奨励していました。 |
新田開発にかける思い |
『砂村先祖伝書』の中では、新左衛門は「熊谷直実は出家して名を残し、実盛は錦を着て討ち死にして名を残したが、かように申す私は田夫野人の生まれだから、出家の身になることも、錦を着ることもできない。せめて地より生え出る物種を集め、それを所々にまいて植えおき、名を残すつもりだ」と述べられています。
内川新田の堤防にも、6万6000本の松を植える計画を立て、着手していました。
内川新田のみならず、横浜の野毛新田、東京(江戸)の宝六島の開発など、多くの業績を残した事業家としての自信と誇りをうかがわせ、新田開発や治水工事にかける思いをうかがいしることができます。 |
農民らしい日常生活の心得 |
農民からのたたき上げの事業者らしさも、『砂村先祖伝書』には記されています。
「朝暮いたずらに年月を送り、親から譲られた田、畑、屋敷、諸道具を無駄にしないようにせよ」とか、「人間の欲にはきりがないとは言え、資産の七分目は自分の体であることを心得よ」など、日常生活の心得をこと細かく記されています。 |
信心深い人物だった |
『砂村先祖伝書』には他にも、「朝夕怠らず念仏申すべく候」、「神仏おろそかにすべからず候」と書かれてあり、信仰心の厚い人物であったことも想像できます。
難工事だった内川新田の潮除門樋(しおよけもんひ、現在の夫婦橋)が完成した際、新左衛門が神仏の加護に感謝して、1667年(寛文7年)に石塔を建立しました。現在でも夫婦橋のたもとに建つ、内川新田開発記念碑になります。碑の表面に「南無阿弥陀仏霊厳寺大誉」と刻まれています。
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・内川新田開発記念碑
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・夫婦橋 |
お墓は正業寺にあります |
当時は廃寺同然だった正業寺(しょうごんじ)を中興したのも、砂村新左衛門でした。新左衛門と一族の墓はこの寺にあります。
また、内川天神社を勧請し、神仏を心の拠り所としました。
墓石は安山岩製で、正方形の台座に溝が掘られており、特殊な形をしています。台座に水をたたえることができるようになっています。一生を水に苦労し続けてきた人生であっただけに、死後は水を制するようになりたいといった願いが込められているのかもしれません。
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・正業寺
三浦半島の歴史:横須賀市久里浜・天神社 |
お墓は浅草から久里浜へ |
実は、内川新田完成後も、この地に定住することなく、内川新田は息子の新三郎に任せ、新四郎を伴って江戸に戻ります。そして深川の砂村新田(東京都江東区砂町の江戸宝六島)の開拓に着手し、寛文7年12月に亡くなりました。
死後は東京(江戸)浅草にある善照寺に葬られていました。しかし久里浜に移り住んだ子孫によって野比の最光寺に移され、さらに久里浜の正業寺に移されました。
三浦半島の歴史:横須賀市野比・最光寺 |
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