葛飾北斎生誕の謎 |
葛飾北斎は、今から230年以上前の江戸時代、1760年(宝暦10年)に江戸本所(ほんじょ)の割下水(わりげすい)で生まれたと言われています。現在の東京都墨田区になります。
真偽のほどは確かではありませんが、忠臣蔵で吉良方の剣客の小林平八郎には娘が一人いて、その娘が後世、鏡師中島伊勢に嫁いでいて、その子が葛飾北斎だとする説もあります。このほかにも、浦賀の商家の生まれだとする説もあります。 |
葛飾北斎改名の謎 |
5歳の頃、中島伊勢(幕府の御用鏡磨師)の養子になったといわれ、幼名を時太郎といいます。
10歳の頃、鉄蔵と名を改めました。
15歳の頃、木版の彫刻を学びました。
19歳の頃、当時では有名な絵師の勝川春章に入門して絵画の道につきました。そのとき、勝川春朗(かつかわしゅんろう)の名をもらいました。 |
さまざまな画風を学ぶ |
当初は役者絵や相撲絵などを主に描いていました。のちに、美人画や風俗画も描くようになります。しかしそれだけでは飽き足らず、ひそかに狩野派の画法を学んだため、1779年に破門されてしまいます。
以後、土佐派、琳派、洋風画、中国画などを学び、独自の画風を開き、日本だけでなく、フランス印象派の画家たちにも大きな影響を与えました。 |
葛飾北斎の奇行に富んだ人生 |
葛飾北斎は奇行に富んだ人ともいわれており、住居は93回も引越し、画号は30数回も変更したといわれています。絵を描くことに熱心で、部屋が汚れては引越しをする生活を送っていたとも言われています。
その画号のひとつに、三浦屋八右衛門と名乗っていた時期もありました。天保5年(1834年)頃と考えられており、葛飾北斎75歳のころにあたります。
俳人の松尾芭蕉が幕府の隠密であったのではないかとする説と同じように、葛飾北斎もまた隠密であったのではないかとする説もあります。 |
三浦半島と葛飾北斎との関わり |
横須賀市吉井にある吉井山真福寺にある観音堂には、天井絵に葛飾北斎が描いたと伝えられているものがあります。実際には、葛飾北斎の流れを汲む者の作品であるとされています。この観音堂は浦賀にあった稲荷社を移築したものとされています。
葛飾北斎は数年間、浦賀に住んでいたといわれています。
『北斎漫画』の中では、「相州走り水」、「浦賀」が描かれています。
三浦半島の歴史:横須賀市吉井・真福寺 |
葛飾北斎の作品 |
『富嶽三十六景』をはじめ、浮世絵など、多くの作品を残しました。その大胆な構図と豊かな色彩で強烈な印象を与える通称「赤富士」の「凱風快晴」がもっとも有名な代表作の浮世絵です。
40歳代になると曲亭馬琴などの作による読本の挿絵を提供するようになりました。この当時の代表作には『新編水滸画伝』や『椿説弓張月』などがあります。
50歳代後半からは、葛飾北斎代表作『北斎漫画』をはじめとする絵手本類を版行しはじめます。
70歳代に入ると、再び錦絵を描き、『富嶽三十六景』、『諸国滝廻り』、『諸国名橋奇覧』などの風景画、『二美人図』、『雪中美人図』などの美人画など、傑出した作品群を描きました。
80歳になっても作画意欲は衰えることなく、90歳で亡くなるまで制作を続けたといいます。生涯での作品数は3万点を越えるともいわれています。
主題、手法を変革し続けた葛飾北斎の偉業がわかると思います。 |
90歳で亡くなりました |
1849年(嘉永2年)4月18日、90歳で亡くなりました。当時としては、驚くべきほどの長寿です。
お墓は、東京都台東区浅草の誓教寺(せいきょうじ)にあります。墓石の正面には「画狂老人之墓」と刻まれ、側面には「ひと魂の、ゆく気散らしや、夏の草、行年九十」と刻まれています。 |
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