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 向井将監忠勝


向井将監はクローン人間?
 向井将監忠勝(むかいしょうげんただかつ)と読みます。
 歴史上の人物で「向井将監」は一人だけではありません。向井家は将監の称を代々世襲したため、何人もの向井将監が存在しますので注意が必要です。

向井兵庫頭正綱 向井将監忠勝 向井正俊(廃嫡)
向井右衛門直宗
長谷川三郎兵衛長久の娘 近江国浪人中田高心の娘 向井長保
      向井正元
      向井将監正方
 わかった人だけ掲載(^^ゞ
未完成品です
    女(松岡藩中山信治の妻)

向井正綱の嫡男として生まれる
 向井左近将監忠勝は、江戸幕府御船奉行の向井兵庫頭正綱の嫡男として、1582年(天正10年)5月15日、駿河国清水で生まれました。母親は、長谷川三郎兵衛長久の娘です。妻は、近江国浪人の中田高心の娘です。
 向井家が将監の称を最初に用いたのは、向井忠勝です。幕府倒壊まで、代々世襲されました。

父を超える所領を取得
向井将監御船手屋敷
向井将監御船手屋敷
 1601年(慶長6年)、父の向井正綱が預かっていた御座船・国一丸を預かり、将軍徳川家康を送迎する御召船奉行という特別職に就きました。
 居館は、走水と、三崎宝蔵山にありました。また、江戸にも上屋敷、下屋敷のほか、船番所役宅もありました。三崎の居館は、大阪冬の陣・夏の陣の功績によって、1617年(元和3年)2月11日に与えられました。このとき、父の向井正綱の所領2000石を上回る3000石を知行する大身となります。

三浦半島の歴史:1614年-大阪の役(大阪冬の陣・夏の陣)

さらなる加増を受ける
 1624年(寛永元年)3月、父の向井正綱の遺領2000石を加えて、5000石となりました。
 さらに1625年(寛永2年)7月21日、2代将軍徳川秀忠より6000石余に加増され、旗本とはいえ破格な待遇を受けるにいたりました。
 このとき、向井忠勝が所領していたのは、上総国内(千葉県)、相模国三浦郡(三浦半島)の26ヶ所の村です。詳細はわかっていませんが、津久井、森崎、三崎、城ヶ島を所領していたことはわかっています。

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安宅丸の建造
安宅丸
安宅丸
 1605年(慶長10年)9月27日、徳川家康の命令によって淡路へ赴き、九鬼長門守守隆、久永源兵衛重勝らと共に、諸大名から500石積以上の軍船をことごとく没収し、江戸湾と駿河湾へ回漕するという任務を果たしています。
 1631年(寛永8年)には、徳川秀忠の命令で安宅丸を建造しています。伊豆伊東で建造された大櫓100挺立ての大船で「天下丸」と命名されましたが、軍船の一般名称である安宅船の名がそのまま船名として定着し、「安宅丸」と呼ばれました。推定1700トンと推定され、日本最大の安宅船となりました。領内の三崎で艤装され、1634年(寛永11年)の夏、西国大名に対する権威の象徴として江戸湾に回漕されました。
 当時、猿若勘三郎という大音美声の持ち主がおり、三浦の人だと考えられています。彼を安宅丸の舳先に立たせ、拍子船頭に音頭をとらせ、威勢良く乗り入れさせたと言われています。

浦賀でのスペイン貿易
渡海朱印状
渡海朱印状
 浦賀湊は、徳川家康の商船誘致交渉によって、1604年(慶長9年)の夏、マニラのスペイン商船が初めて入港しました。それ以来、徳川家康が亡くなるまで、国際貿易港として多くの外国商人や宣教師が浦賀に在留し、フランシスコ修道院や貿易代理店が置かれ、貿易を保護する高札も立てられました。
 向井忠勝の父向井正綱は高齢だったので、実際に浦賀貿易を統括していたのは向井忠勝でした。
 向井家は浦賀を出航するすべての商船に対して渡海朱印状を仲介する立場にありました。当時は渡海朱印状がないと出入国できず、誰でも申請すればもらえるものでなく、将軍側近の仲介が必要でした。
 向井忠勝は、浦賀に来たスペイン商人に日本商品を託し、その売り上げで外国商品を購入するように頼みました。しかしそれが不履行に終わり、そのときに在日していた使節ビスカイノは、自分たちの処遇はすべて向井忠勝の掌中にあると考慮し、弁済したといいます。
 幕府の仲介役として貿易を左右する重要な存在でした。

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支倉常長慶長遣欧使節団に協力
支倉常長
支倉常長
 1613年(慶長18年)8月、陸奥国伊達政宗の遣欧使節船建造にも協力しました。これに家臣を便乗させ、自らメキシコ貿易を行っています。
 この遣欧使節船が1615年(元和元年)閏6月21日、浦賀に寄港したときは、オランダ、イギリスの在日貿易商人らが集まり、大きな賑わいを見せました。

禁教令から鎖国の時代へ
 1616年(元和2年)、徳川家康が亡くなると、全国に厳しいキリスト教禁止令が出され、貿易は長崎の平戸だけに限られました。浦賀にあった貿易代理店も修道院も破壊され、浦賀の国際貿易港としての隆盛も断たれました。
 向井忠勝の御船奉行としての任務は、鎖国に向けて宣教師が商人に扮して入国しないように、三崎番所、走水番所にて出入りする船舶を監視するという任務に変わりました。

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深川陽岳寺と三崎見桃寺にお墓
 向井忠勝は、寛永18年10月14日、60歳で病死しました。
 上野寛永寺に葬られ、現在は深川陽岳寺に改装されています。お墓は、三崎見桃寺にもあります。

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