フランス人との親交 |
1822年(文政5年)3月10日、江戸幕府の医官をしていた喜多村槐園の三男として、江戸神田で生まれました。長兄の喜多村直寛は幕府医学館考証派として有名です。
1843年、幕府の学問所昌平坂学問所に入学し優秀な成績を修め褒賞を受けます。
1848年、栗本家の家督を継ぎ、栗本姓を名乗ります。奥詰医師となり、安政年間、医学館で講書を務めます。
1858年2月24日、30歳を過ぎるころ、幕府の命を受けて蝦夷地(現在の北海道)函館に移り住みます。約10年間、蝦夷地で暮らし、薬園、病院作り、養蚕業の普及などを行います。1862年には箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられました。
このころに、函館にいたフランス人書記官、メルメ・デ・カション(カシュン)に日本語を教え、友情が芽生えます。この親交が、のちの江戸幕府とフランスとの親密な外交を行っていくための大きな布石となりました。 |
横須賀製鉄所建設計画 |
1864年(元治元年)、43歳で江戸、横浜に戻りました。このころから、栗本鋤雲と横須賀との関わりが深くなっていきます。
栗本鋤雲が横浜に来ると、函館にいたころに日本語を教えていたメルメ・デ・カションが、フランス公使レオン・ロッシュ付書記官として横浜に来ていました。旧交を温めるとともに、カションを通じてフランス公使レオン・ロッシュとも親しくなることができました。
そして、小栗上野介忠順とともに、親仏派の中心として幕府を助け、フランスの力を借りてよこすか製鉄所の建設計画を立てました。
『栗本鋤雲遺稿』には、「製鉄所は最初、船越或いは狢ヶ谷に取建つる見込にて導示せしが、佛人測量して海底遠浅にして十分ならざる旨申出たれば、改めて横須賀を示せすに、・・・(中略)・・・、佛国ツーロン製鉄所の地形に彷彿せりと大いに喜びたるを以て、始めて此所に確定せり」と書かれてあります。
三浦半島の歴史:歴史人物事典・レオン・ロッシュ |
報知新聞ジャーナリストとしても活躍 |
栗本鋤雲は、1865年(慶応元年)、江戸に帰り、軍艦奉行になります。翌年には安芸守に叙任され、外国奉行も兼任し、フランスに渡って、さらに親睦を図りました。
しかし、フランスで明治維新を迎えて職を辞し、1868年に帰国します。
1873年、『報知新聞』の主筆を務め、明治時代にはジャーナリストとして活躍しました。
1897年(明治30年)3月6日、76歳で亡くなりました。お墓は小石川大塚善心寺にあります。 |
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