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 朝倉能登守

朝倉能登守の出生
浦郷陣屋跡
浦郷陣屋跡
 全国区での有名人ではありませんが、朝倉能登守は戦国時代の武将です。小田原北条氏時代の浦郷村の領主となっています。
 朝倉能登守の生年を記した資料は見付かっていませんが、小田原城落城の時には67歳だったそうです。そこから逆算すると、大永3年(1523年)の生まれになります。織田信長の家臣、柴田勝家より1歳若いことになります。
 天正元年(1573年)に織田信長によって朝倉氏が滅ぼされ、生き残った朝倉一族は北条氏政に仕えました。
 北条役帳には「朝倉右馬助、百二十貫、三浦浦ノ郷」とあり、朝倉右馬助(あさくらうめのすけ)が、朝倉能登守の初名だと思われます。しかし、実名が景隆なのか、景澄なのか、重信なのか、まだはっきりとはわかっていません。
 とりあえず、朝倉能登守と名乗る者が、浦郷村の領主として、現在の追浜南町の良心寺東側に居を構えていたことは確かです。

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千葉県富津市の佐貫城を治める
雷神社
雷神社
 朝倉能登守は、永禄2年(1559年)6月、落雷によって焼失した築島の鎮守を、天正9年(1581年)11月3日、雷電大明神として現在の地に移転させた人物です。
 伊豆、上総国にも所領を持ち、上総の里見義弘が築城した天羽群佐貫城は、のちに北条氏家臣として朝倉能登守が居住したと伝えられています。

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朝倉能登守と良心寺
良心寺
良心寺
 朝倉能登守は、北条早雲が築いた玉縄城(現在の大船)の玉縄十八人衆の一人として、玉縄城主・北条左衛門大夫氏勝、朝比奈孫太郎の次に数えられるほどの実力者でした。
 朝倉能登守の兄・朝倉政景の娘は、二代目玉縄城主・北条為昌の夫人として迎えられています。
 朝倉能登守は子がいなかったため、後世のために良心寺の中興を思い立ち、天正3年(1575年)6月26日、「大もり二貫」の地を提供し、夫人の要請により京都知恩院三十三世・知誉幡随意を開山として招き、浄土宗良心寺として中興しました。京都から僧を招いたということは、朝倉氏と京都との繋がり、朝倉氏の財力を知ることができます。
 能登守が寄進した後、朝倉右馬助が未年6月11日、「浦郷村五百貫」を寺の屋敷地として寄進しています。同名でややこしいのですが、この朝倉右馬助は、朝倉能登守の養子となった者です。朝倉氏では、右馬助を名乗る者が多いようです。未年は朝倉能登守の夫人で、朝倉右馬助の養母の没年にあたる天正11年で、供養のために寄進したものと思われます。

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資料に残された朝倉能登守の活躍
  朝倉能登守の追浜における政治的業績は、地元で見ることはできません。ですが朝倉能登守の名は、『関八州古戦録』、『北条記』などに、時々登場します。関東でも名前の知られた、弓矢と馬術の名人だったようです。
 北条氏勝に従い、江戸、河越、伊豆戸倉など、数度の合戦にも参戦し、「戦さ奉行」、「戦さ家老」などの異名を持ちました。駆け引きがうまく、勝利を得ることをもっぱらのたしなみとする武将でした。
 天正18年3月、徳川家康によって箱根の山中城が落城に追い詰められた際、切腹寸前の北条氏勝を抱き止め、その場で「我は犬也(丈也かも)」と称し、剃髪しました。

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結城秀康の家臣へ
結城秀康
結城秀康
 北条氏滅亡後は浪人生活を送っていましたが、朝倉能登守の日常生活を見た結城中納言秀康は、飼い置けば必ず益ある『逸物の犬なり』と評価して呼び寄せ、知行地を与え、結城家の近習としました。このとき、朝倉能登守、68歳でした。
 結城秀康は徳川家康の次男で、天正19年に下総城主・結城晴朝の養子となって結城家を継ぎました。関ヶ原の合戦後は、松平姓に復姓して福井藩主となりました。34歳の若さで亡くなりましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵などでも活躍した武勇に秀でた人物です。徳川家ですが、豊臣恩顧の武将でもあります。
 福井越前家分限帳には、「御側衆、六百石、朝倉犬也」と書かれています。「百廿貫文、三浦浦ノ郷」と書かれています。徳川の時代になっても、しばらくの間は北条氏時代の浦郷の旧領を安堵されていたようです。

朝倉能登守の晩年
朝倉能登守夫人の墓
朝倉能登守夫人の墓
 朝倉能登守の生涯は、実に戦さに明け暮れた日々でした。浦郷の館に落ち着くことがほとんどなかったことが、自身の書状からも察することができます。
 戦国の世に生まれた武士として、ふさわしい人生だったのかもしれません。
 しかし、朝倉能登守がどこで没したのかといった記録は、浦郷村には残っていません。もし浦郷村で亡くなったのであれば、夫人の眠る良心寺に葬られたと考えるのが普通でしょう。
 結城秀康の国替えに伴って福井へ行き、その地で没したと考えられます。越前の国(現在の福井県)は、朝倉一族の出身地でもあります。

残された逸話
馬
 逸話として残されている話なので、史実であるかどうかはわかりません。
 ある日、結城秀康が朝倉能登守(朝倉犬也入道)に、若かりし頃の馬鍛錬を披露するように命じます。しかしこの時すでに70歳にもかかわらず、自由自在に馬を操る姿を見て、結城秀康は若き頃はさぞやと感じ入ったといいます。
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