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芥川
龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) |
1892〜1927 |
大正時代を代表する短編小説家。東京出身。
東京帝大英文科に在学中、夏目漱石の門に入り、菊池寛(きくちひろし)らと同人誌『新思潮(しんしちょう)』に参加します。
『鼻』『羅生門』『芋粥』『蜘珠の糸』などが主な作品。 『今昔物語』など、古典を素材にした作品が多く、鋭い心理分析と気品ある描写に特徴があります。
神経衰弱のため36歳の若さで自殺しました。彼を記念して、「芥川賞」が設けられました。 |
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明智
光秀(あけち みつひで) |
1528?〜1582 |
安土桃山時代の武将。通称は十兵衛。
織田信長に仕えましたが、1582年、豊臣秀吉の中国地方征伐の救援を命じられた時、京都本能寺にいた信長を襲って死なせました。 しかし、秀吉に山崎の合戦で敗れ、逃げる途中、農民に殺されます。
キリシタンの細川ガラシャは、光秀の次女。 |
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浅野
長政(あさの ながまさ) |
1544〜1611 |
安土桃山時代の大名。
織田信長に仕えていましたが、のち豊臣秀吉の天下取りのためによく働きました。秀吉とは妻同士が姉妹。秀吉の信任が厚く、五奉行のー人でした。また太闇検地の奉行としても活躍。秀吉の死後、関ケ原の戦いでは徳川家康につきました。 |
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足利
尊氏(あしかが たかうじ) |
1305〜1358 |
室町幕府の初代将軍。
鎌倉幕府に仕えていましたが、後醍醐天皇との戦い(元弘の乱)で天皇に味方し、六波羅探題を滅ぼしました。鎌倉幕府が倒れると、ほうびとして建武の新政の重要な役職に就きます。
しかし、武家政治を復活するため、朝廷政治に不満をもつ武士を集め、楠木正成を破って京都に入り、光明天皇の北朝を立てました。このため後醍醐天皇は吉野に逃げて南朝を立て、南北朝時代に突入しました。
1338年、征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開いて武家政治を行う。建武式目(けんむしきもく)をつくって政治の参考としました。
また仏教を信じ、禅僧の夢窓疎石から学ぶ。京都の嵐山に天竜寺を、全国各地に安国寺を建立した。 |
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足利
義政(あしかが よしまさ) |
1436〜1490 |
室町幕府八代将軍。 義教(よしのり)の子。
子に男子ができず、弟の義視(よしみ)を養子に迎えましたが、翌1465年、妻の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生み、後継ぎ争いから応仁の乱を誘発。自分は乱を避けて京都東山に隠居し、銀閣寺を建てて風雅に暮らしました。
土一僕が続き、経済が混乱し、幕府の権威を失わせましたが、美術工芸など各方面で東山文化を育てた文化史上の功績は大きいですね。 |
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足利
義満(あしかが よしみつ) |
1358〜1408 |
室町幕府三代将軍。尊氏の孫。
京都の室町に豪華な邸宅「花の御所」を建て、幕府をかまえました。各地の守護の争いをおさえ、南北朝の合体を行って幕府全盛期を築きました。1394年、出家して子の義持(よしもち)に将軍の座をゆずりましたが、実権はにぎっていました。
京都の北山に金閣(寺)を含む大きな別荘・北山第(きたやまだい)をつくり、多くの文化人を招いて北山文化を生みました。また明との貿易を再開し、利益をあげました。 |
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足利
義持(あしかが よしもち) |
1386〜1428 |
室町幕府四代将軍。9歳で将軍になりましたが、父・義満に嫌われ、政務は義満の手で行われました。父の死後、初めて実権をにぎると、朝廷が義満に贈ろうとした大上(だいじょう)天皇の号を辞退、また義満が始めた明との貿易も中止して反発をあらわにしました。しかし、酒や遊びにおぼれ、国の治安は乱れました。 |
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阿部
仲麻呂(あべの なかまろ) |
698〜770 |
奈良時代の学者。
717年、遣唐使として留学することになり、留学生・吉備真備(きびのまきび)、留学僧・玄防(げんほう)らとともに中国の唐に渡った。首都長安の大学で勉強した後、唐の朝廷に仕え、玄宗皇帝(げんそうこうてい)から大事にされたといいます。
詩歌にすぐれ、その才能は唐でも認められ、詩人の李白(りはく)や王維(おうい)らとも親しくしました。帰国の途中、船が難破し、不幸にも一生日本に帰れませんでした。 |
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安倍
頼時(あべの よりとき) |
????〜1057 |
平安時代の陸奥(現・岩手県)の豪族。
代々、伴囚(ふしゅう・律令国家にしたがった蝦夷の呼び名)の長でした。
領地拡大をはかったうえ、政府に税を納めなかったため1051年、朝廷軍の源頼家・義家親子に攻められました。頼時は戦いの途中で倒れましたが、息子の貞任(さだとう)は、1062年まで戦いぬきました。これを前九年の役といいます。 |
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天草
四郎(あまくさ しろう) |
1621?〜1638 |
江戸時代初期のキリスト教徒。本名は益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)。
長崎の天草に住んでいました。生い立ちは謎。
美少年で賢く農民の崇拝を集めたといわれ、1637年、島原の乱が起きると、16歳の若さで首領に推されました。原城跡(はらじょうあと)に籠もり、幕府軍とよく戦いましたが、力尽きて捕まり首をはねられました。 |
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新井
白石(あらい はくせき) |
1657〜1725 |
江戸時代中期の儒学者・政治家。
江戸の貧しい家に生まれ、30歳ごろから木下順庵(きのしたじゅんあん)に儒学を学びました。
1693年、順庵の推薦で甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に仕え、のち綱豊が六代将軍・家宣(いえのぶ)となると、そのそばで直接、政治を助けました。
幼少の七代将軍・家継(いえつぐ)にも仕えましたが、八代将軍・吉宗(よしむね)には退けられました。
朱子学と合理主義を重んじ、貨幣の改良、貿易の制限などを行います。
著書には、武家政治の由来を書いた『読史余論(どくしよろん)』、密入国したイタリア人宣教師シドッティのロ述筆記『西洋紀聞(せいようきぶん)』などがあります。 |
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安藤
広重(あんどう ひろしげ) |
1797〜1858 |
江戸時代後期の浮世絵師。
江戸の火消し同心の子。 15歳で歌川豊広(うたがわとよひろ)の門に入り、浮世絵を学ぶ。狩野派、南画(なんが)、四条派の技法も習得し、美人画家として活躍したが、1832年に『東海道五十三次』を発表して転機を迎え、風景版画家として名をなした。自然を叙情的に表現する日本的様式をつくりあげ、葛飾北斎(かつしかほくさい)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と並んで世界的に有名。 |
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安徳天皇(あんとくてんのう) |
1172〜1185 |
第81代。在位1180〜1185年。高倉(たかくら)天皇の第一皇子。母は平清盛の娘の建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)。
この孫のおかげで、清盛はいちだんと勢いを増しました。
源義仲(みなもとのよしなか)が京都に攻め入ると、安徳天皇は平氏とともに瀬戸内地方に逃れ、壇の浦の戦いで平氏一門と入水しました。 |
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