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三浦義同


三浦道寸と呼ばれる男

 三浦義同は戦国時代初期の武将で、平安時代から続いた三浦一族最後の当主です。三浦義明の末子・佐原義連の子孫のあたります。
 相模国東部の小大名で、北条早雲最大の敵となって立ちはだかりました。
 地元では三浦義同(みうらよしあつ)という名前よりも、三浦道寸(みうらどうすん)の名で親しまれています。
人物事典:三浦一族
人物事典:三浦一族系図
 出自については諸説あり、はっきりとはしていません。
 1449年〜1518年(70歳没)、佐原葦名(系図算要)
 1453年〜1518年(66歳没)、三浦支流(寛政重修諸家譜)
 1457年〜1516年(60歳没)、神奈川県通史編
 1464年〜1516年(53歳没)、神奈川県人物編・正木家譜
 ????年〜1516年(??歳没)、国史大辞典・そのほか


三浦一族の内紛

三浦義同
三浦義同

 扇谷上杉家から、家督を継ぐべき男子がいなかった新井城主・三浦時高の養子に入ります。
 しかし、時高に実子・高教が生まれたため不和となって、山内上杉家の上杉顕定を頼ります。次いで祖父・大森氏頼を頼り、大森氏領内の総世寺(現在の小田原市久野)に身を潜めます。このとき、出家して道寸を名乗るようになります。
 そのため三浦氏の被官は上杉時高派と、三浦義同派に分裂してしまいます。しかし、義同を追放した時高の行為に不満を持つものが多く、三浦氏の家臣の多くは義同派につきました。

 1494年(明応3年)9月、義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻め時高と高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職を手に入れましたた。このとき、のちに最大のライバルとなる北条早雲は、義同とともに新井城を攻めたと言われています。
 その後、実子の義意(荒次郎)に家督を譲って新井城に据え、自らは相模中部の岡崎城(現在の平塚市)に入りました。
人物事典:三浦義意
 上杉定正の死後に家督を継いだ朝良と和睦し、台頭してきた安房国の里見氏とは同盟を結びました。


北条早雲の台頭

小田原城
小田原城

 1495年(明応4年)、相模国西部を抑えていた小田原城主・大森藤頼が、駿河今川氏の軍師・伊勢宗瑞(のちの北条早雲)によって城を奪われました。
 早雲は伊豆国と小田原を本拠として戦国大名化していき、関東へ本格的に進出を始めるようになります。
 道寸は大森藤頼を保護して早雲と戦いました。しかし、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年(明応7年)、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案します。話し合いの結果、上杉顕定が守護職だった伊豆を2分することで和解が成立し、早雲が伊豆半島を、義同が伊豆諸島を領有することになりました。
 その後、早雲と朝良は上杉顕定を立河原の戦いで破りましたが、やがて両者は対立するようになっていきます。そのため、扇谷上杉家傘下となっていた三浦氏とも対立することになりました。
 1510年(永正7年)、義同は小田原城の早雲を攻め、早雲も岡崎城に攻撃します。
 こうして三浦氏と北条氏との直接対決の機運が高まっていきました。

新井城での攻防

新井城
新井城

 1512年(永正9年)、ついに北条早雲は兵を挙げて岡崎城に攻め込みました。激しい戦闘が繰り広げられましたが、かなわないと見た三浦義同は、弟の三浦道香が守る住吉城(現在の逗子市)に退却しました。こうして岡崎城は、早雲の手に落ちます。
 住吉城でも抵抗を続けましたが、義同は新井城へ退却し、道香は逗子の延命寺で自害しました。

 扇谷上杉家へ援軍を要請し、援軍に向かった太田資康も北条軍に迎撃されて討ち死にしました。太田資康は金谷村の大妙寺(現在の大明寺)に葬られたと言われています。

 義同・義意父子は三浦半島の新井城に籠城し、北条軍がこれを包囲しました。
 三方を海に面する天然の要害で、三浦水軍の軍事力を背景に持つ新井城の守りは堅固で、三浦父子は北条軍の攻撃を3年間に渡って抑えました。
 1516年(永正13年)、兵力は減少していき、兵糧も尽きました。最後に打って出ますが、城兵の多くは討ち死にし、新井城に戻って腹を真一文字に切って切腹しました。息子の義意が介錯を行いました。
 歌人・東常縁の指導を受けていた義同は、「討つ者も 討たるる者も かわらけよ、 くだけて後は もとの土くれ」の辞世の句を残しています。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代・新井城
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代・三浦義同の墓


三浦一族の悲運

三浦道寸の墓
三浦道寸の墓

 平安時代以来、豪族の名門ともいえる三浦一族は、鎌倉時代の宝治合戦において北条家に滅ぼされました。
 南北朝時代に復活したのに、再び北条家によって滅ぼされてしまいました。
 新井城落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって、波の静かな油壺湾一帯は血に染まり、まるで海面に油を流したようだったことから、油壺という地名になりました。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町小網代・油壺湾

 このため、横須賀市民・三浦市民は、北条姓を名乗る人物に出会うと敵対心を抱き殺意が芽生えると言われています。
 とくに三浦一族の末裔を自称する人々は、現在でも水面下で激しい争いを繰り広げていると伝えられています。

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