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景清の牢
景清の牢
半分以上崩壊してしまっていますが、平景清が押し込められていたと伝えられる景清の牢です。景清窟とも呼ばれています。
景清がこの岩屋に捕らえられていたという話は、後世に作られた伝説だと考えられます。石碑は江戸時代に建てられたものです。
通称は「上総七郎」で、上総介忠清の七男だったためそう呼ばれています。「悪七兵衛」の異名を持ち、自分をかばってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことからそう呼ばれるようになりました。また、悪人ではなく、悪党を意味する勇猛さを表す名前でもあります。
近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎で知られる悪七兵衛景清は、源平合戦の治承・寿永の乱で活躍した平家方の侍大将です。平家が滅んだ後も生き延びていました。
1195年(建久6年)、源頼朝が奈良東大寺の大仏開眼供養のために上洛した際、頼朝を暗殺しようとしたものの失敗して捉えられてしまいました。侍所の長官だった和田義盛に預けられ、義盛は景清を鎌倉まで連れてきて自分の屋敷に幽閉しました。
のち、八田知家(はったともいえ)に預けられ、断食して自ら命を絶ちました。
平景清と呼ばれていますが、平氏ではなく藤原氏になります。藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏になります。
実在した人物ですが、謎が多いこともあり、平家の落人として扱われるなど日本各地に伝説が残されています。景清の牢もそれらの伝説のひとつです。名刀「あざ丸」の所有者で、刀身を見つめた際、顔のあざが見えたことから名付けられました。
なお、父親は吾妻鏡にも登場する藤原忠清、兄は1192年(建久3年)に永福寺で源頼朝を暗殺しようとして失敗し打ち首にされた藤原忠光です。
ここから化粧坂切通しへと向かうあたりを「綴喜の里」(つづきのさと)といいます。
藤原家隆の「誰が里に つづきの原の 夕霞 煙も見えず 宿はわかまし」の歌は、綴喜の里を詠んだものだと考えられています。
和田義盛|人物事典
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JR鎌倉駅下車 徒歩20分
景清の牢の写真
化粧坂切通しから海蔵寺へと向かっていると、なんだかよくわからない岩の塊みたいなのを発見しちゃいました。
石碑も建てられていたので、良くわからないままとりあえず写真を撮っておきました。
住宅街に突如現れた岩の塊って感じです。
帰宅後に調べてみて知ったんですが、景清が幽閉されていた牢屋跡だそうです。
でも、本当に幽閉されていたってわけじゃなくて、伝説に域を出ない話です。日本各地にある景清伝説のひとつといったところでしょうか。
壊れかけた史跡だけど、これからさらに壊れてしまいそうな気がします。
もろい砂岩質なんじゃないかな、木の根が張る力に負けてしまうんだと思います、そうして崩れていったのかな・・・
これ以上壊れないように木を伐採してありますが、雨水が浸透するなどして壊れてしまいそうです。
崩れる前の写真とか見てみたかったなー、せめて10年前とか20年前とか・・・
もしかすると、今と比べると少し状態が違っていたりするかもしれないし。
機会があったら、いずれまた訪れてみたいです。
石碑が2基ありました。
どのようなことが刻まれているのか、まったく気にしていなかったので確認しませんでした。
景清牢であることが刻まれているのか、道標なのか・・・、うーん、なんだろうね?
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