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  横須賀市芦名史跡巡り・観光名所案内

横須賀市芦名
大楠山ハイキングコースの入り口
   芦名といえば、なんと言っても大楠山です。芦名口のハイキングコースから登れば、車でも頂上付近まで登ることができます。
 十二所神社や淡島神社の背後の山すそには、多くのやぐらが発見され、歴史の古さを感じさせます。他に安隠寺や南光院などがありますが、資料を無くしてしまいました(^^ゞ

十二所神社祭礼
十二所神社祭礼・昭和27年頃

浄楽寺(じょうらくじ) バス停浄楽寺前下車 徒歩1分
 山号は金剛山長寿院、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀如来。
 創建については2つの説があります。源頼朝が、1185(文治元)年、父義朝の霊を弔うのと、平家追討の戦勝記念として鎌倉御堂ヶ谷に勝長寿院を建立しましましたが、1206(建永元)年に台風によって寺が破損してしまいました。そこで、北条政子と、和田義盛が協力して、本尊をここに移したという説が一つ。
 もうひとつは、和田義盛が1189(文治5)年に建てた七阿弥陀堂のひとつで、僧の寂恵良暁が復興に尽力したと言う説があります。
 1591(天正19)年には、徳川家康により3石の朱印を与えられました。

 阿弥陀三尊、不動明王立像、毘沙門天立像は国の重要文化財に指定されおり、本堂裏手の鉄筋コンクリート造りの収蔵庫に安置されています。
 毘沙門天立像(寄木造、玉眼入り、像高139cm)の胎内から、昭和35年に運慶の月の輪型(おしゃもじ型)の銘札が発見されました。これにより、この像は1189(文治5)年、青年期の運慶が小仏師10人を率いて和田義盛夫妻の依頼により造立したことがわかりました。
 不動明王立像(寄木造、玉眼入り、像高138cm)の胎内にも、昭和40年に毘沙門天立像と同様の銘札の存在が確認されました。これら2像は、玉眼入りの像としてはこのあたりでは最古のものとなっています。
 阿弥陀三尊(ヒノキの寄木造、彫眼、中尊142cm、右の観音菩薩179cm、左の勢至菩薩が177cm)の胎内の銘札の書体が、毘沙門天・不動明王のものと同じで、像も鎌倉初期の作風であることから、これらも運慶の作であると考えられています。1つの光背が三尊をカバーしている一光三尊の善光寺式です。
 これらの仏像は、北条時政の依頼により運慶が制作した伊豆韮山の願成就院の仏像とともに、東国における運慶の活動や作風を知る上で貴重な存在となっています。

 収蔵庫には、この他、1220(承久2)年に北条政子が献納したと伝えられる銅製懸仏(かけぼとけ)も収められています。
 また、境内には近代郵政事業の父「前島密(まえじまひそか)」のお墓があります。1円切手の人といえばすぐにわかるのでは。

芦名城(あしなじょう) バス停芦名下車 徒歩7分
 大楠小学校の山より周辺は「御館(みたち)」と呼ばれ、芦名氏(三浦義明の弟芦名為清)の館があったところと伝えられています。
 この館があったといわれる所の東南に「城山(じょうやま)」と呼ばれる岩山があり、ここの平坦な丘の部分ががかつての芦名城です。岩山の東南側は絶壁となっていて、下は深い凹地となっており底に川が流れています。おそらく、この川が堀の役目をしていたと思われます。堀に橋を架けたと思われる「はしど」という地名も残っています。現在は、マンションや住宅が建てられ、かつての面影をしのぶことはできません。

 ちなみに、凹地を流れる川を芦名川といい、川の傍らに三浦半島では珍しい宝筺印塔の庚申塔があります。台座には「正保二(1645)年六月吉日」とあり、講中氏名に高橋姓5名と吉田姓2名が刻まれています。かつては城山の山頂にありましたが、明治末に現在地に移されました。塔身と基礎部分が別々になっていますが、合わせれば2メートルぐらいになると思います。

三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明

十二所神社(じゅうにしょじんじゃ) バス停大楠芦名口下車 徒歩15分
 祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)から鵜葺草葺不合尊までの天神七代、地神五代の十二代の神々。芦名城の鎮守として祀られたとの伝承があります。御神体は、木製の古仮面です。
 明治初期頃までは、三浦十二天明神と呼ばれていました。

 吾妻鏡によると、1182(寿永元)年8月21日、北条政子が産気付いたため、御家人を祈祷のために伊豆権現、箱根権現、相模一山、三浦十二天、武蔵六所宮、常陸鹿島、上総一宮、下総香取社、安房東条寺、安房州崎社の八社に参拝させたとあります。三浦十二天は佐原義連が参詣しています。
 1591(天正19)年、徳川家康は、寺領2石を寄進しました。
 1819(文正2)年、郡奉行石沢義則が、江戸湾防備のためこの地を領していた会津藩藩主・松平容衆(かたひろ)の代理として、郡中安全の大祭を盛大に行ったとあります。

 他に境内には、弘法大師が焚いた護摩の灰から作ったと伝える「帯解(おびとき)子安地蔵」があり、安産祈願に訪れる人が後を絶ちません。しかし実際には訪れる人はそれほど多くありません(^^ゞ
 毎年3月3日に祭礼が行われます。

淡島神社(あわしまじんじゃ) バス停大楠芦名口下車 徒歩15分
 祭神は少彦名尊(すくなひこなののみこと)、大国主大神と一緒に国造りをした神様。
 和歌山県加太村の淡島神社を勧請したものと伝えられています。和歌山の淡島神社は、延喜式にも記されている古い神社で、もともと、加太(かた)の沖合い友島の粟島にあったものを、隣村である加太の現在地に移したと伝えられています。そして、加太の海女たちの氏神であったところから、婦女擁護の神という信仰が生まれました。
 淡島明神とは、住吉明神の奥さんで、腰の病があり夫婦仲が悪く離婚して、傷心のうちに船で旅をして流れ着いたところが和歌山県の加太村でした。ここで、「女性の腰の病に悩んでいる人々を救ってあげるザーマス」と決心し、淡島の神になったといわれています。

 江戸時代中期頃から全国的に広まる淡島明神の信仰の背景には、『淡島願人(がんじん)』という乞食坊主たちの活躍がありました。彼らは、小さな神棚に赤や紫の布切れを結んで飾りつけた箱に、分霊神を祀って背負い、淡島神社の功徳や縁起を唱えて諸国を巡り歩き信仰を集めました。
 その祭文は「淡島大明神は、大阪住吉大明神のきさきでしたが、まだまだコギャルの16歳の春、婦人病にかかったため住吉大明神にうとまれ、堺の七度の浜より粗末な丸木舟に乗せられて流され、3月3日に淡島につきました。その時持っている巻物を取り出し「雛」の形に刻み、これが雛遊びの初祀りなんたらかんたらがんだーら、、、」
 底抜け柄杓の縁起については、住吉明神が海の神であり、漁のために海に出た船を海の亡霊が沈めようと「水を掻き込む柄杓をオークレ、柄杓をチョウダイ!」と盛んに叫ぶ時に、底の抜けた柄杓を亡霊に与えたので、亡霊が船に海水を掻き込むことができなかったという伝説があります。
 そんなこんなで、航海安全・安産・縁結びの三位一体の淡島明神の功徳を説いて廻ったため、現在の幅広い民間信仰が成り立ったといわれています。

 3月3日のお雛祭りには、底抜けの柄杓の柄に麻を結び安産を願い、腰の病の無病息災を祈って祈願する人たちは今でもたくさんいます。
 十二所神社、帯解子安地蔵、淡島神社と、女性に関する神仏がまとまって1ヶ所にあるのはとても不思議な気がします。
 ちなみに、淡島神社を降りて右側の崖面を見ると、横に掘られて穴がありますが、これは昔年貢米などを収容した「郷倉」であるといわれています。
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