そらいろネット > 三浦半島観光地図 > 横須賀市 > 鴨居 > 権現洞

権現洞


権現洞

バス停観音崎下車 徒歩7分
地図
権現洞
権現洞

 観音崎公園の海岸園地を歩いていると、ポッカリと大きく穴の開いた洞窟を発見。足元の石畳は、横浜の市電の敷石に使われていた花崗岩を、移転して再利用したものです。
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・観音崎公園
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・観音崎海岸
 聖武天皇の御代天平13年(741年)の春、諸国を修業中だった行基菩薩がこの地を訪れました。
 かつてこの辺りには、ウミウがたくさん生息していました。そしてこの洞窟には、大蛇が住んでいました。漁船や運搬船が通るたびに、ウミウは群れになって飛び立ち航行の邪魔をし、大蛇は暴れて船をひっくり返して、漁民や船乗りたちも恐れをなして、苦しめられていました。
 行基はこの話を聞き、大蛇を退治し、その霊を鵜羽山権現として祭られました。

写真撮影:2008年08月15日

権現洞

バス停観音崎下車 徒歩7分
権現洞
権現洞

 地層がクッキリと見えますね。こういった洞窟は、海蝕洞窟っていいます。波の浸食によって、岩石が削られてできた洞窟です。波が打ち付ける場所に造られるので、地盤が隆起していることがわかります。
 この近くにある走水神社には、日本武尊とその妃・弟橘媛命が祭られています。この洞窟の沖合いで入水して海を鎮めた弟橘媛命を、十一面観音として刻まれ、そばに安置しました。それ以来、海上安全、人命守護の霊地として信仰されてきました。十一面観音は別名を「船守観音」と呼ばれ、村人はもとより、遠くの漁民や船乗りから信仰されていました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水神社
 また別の話では、行基は大蛇を退治したのではなく、仏像を彫って洞窟に収め、大蛇の霊を鵜羽山権現として祀りました。するとその後は、海上はいつも静まりかえり、ウミウに邪魔されることもなくなり、船は安全に航行できるようになったと言われています。
 そして村人たちは、仏像の御利益で安全に航海できるようになったと考え、小さなお堂を建て、仏像を祀りました。航海の安全を守ってくれるため、船守観音と呼ばれるようになりました。
 時代の変化とともに荒廃してしまいましたが、現在は観光地として復興され、再び海上安穏、人命守護、世界平和の祈りがなされています。

写真撮影:2008年08月15日

権現洞

バス停観音崎下車 徒歩7分
権現洞
権現洞

 海蝕洞窟ですが、権現洞という名前が付けられているようです。観音堂だと思っていたのですが、調べてみたら権現洞になっていました。鵜羽山大権現(うばやまだいごんげん)を祀っていることから、権現洞と呼ばれています。
 落石の危険があるためか、かなり手前にフェンスが建てられています。もっと近くに行きたかったなー。できれば、洞窟の中を探検してみたかった。
 洞窟のすぐ手間にもフェンスが作られているので、以前はすぐ手前の場所まで行けたんだと思います。
 かつてこの辺りは、観音堂があった場所です。1885年(明治18年)、観音崎一帯が要塞陣地と化したため、亀崎に移転しました。観音堂があった名残りが、この権現洞や、無縁仏、イチョウの木などになります。
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・寂光土
三浦半島観光地図:横須賀市鴨居・観音寺跡
 観音寺の移転に合わせて、海蝕洞窟に祀られていた鵜羽山権現も、亀崎に移されました。
 観音崎という地名の由来も、元々は「仏崎」と呼ばれていた地名でしたが、観音寺があったことから「観音崎」と呼ばれるようになりました。

写真撮影:2008年08月15日

権現洞

バス停観音崎下車 徒歩7分
権現洞
権現洞

 デジカメの望遠を使って、洞窟の中の写真を撮影してみました。
 たくさんの石が積まれて、階段状になっているみたいです。中心部分に石製の祠が設置されていました。開口部分は大きいですが、奥行きはそれほどでもないみたいです。
 1213年(建保元年)、建保の乱(和田義盛の乱)の時、観音堂のお守りをしていた人が、こっそり仏像を持ち出し、どこかえ行ってしまいました。村人たちは探しましたが、姿を消した堂守りも仏像も、見付かりませんでした。
 また、津浪で流されたとも言われています。
 1244年(寛元2年)、走水沖の海底から、夜になると不思議な光がさすことに漁師が気付き、村人たちがその辺りの海底を探すと、磯の間から仏像が出てきました。拾い上げた仏像は、以前になくなった観音像だったため、元の場所に安置しました。
 海底に潜って拾い上げたのではなく、走水の漁師をしている細川弥左衛門の魚網に掛かったとも言い伝えられています。

写真撮影:2008年08月15日

説明看板

バス停観音崎下車 徒歩7分
説明看板
説明看板

 海蝕洞窟の由来が書かれた説明看板。1000年以上も前からあったんですね。三浦半島は巨大地震によって隆起し続けているので、1000年以上も前となると、波打ち際に近い場所にあったんだろうなー。
 現在でも、仏像が沈んでいた場所を「テスリ」や、「手摺りヶ淵」と呼ばれています。仏像を引き上げる時、磯の割れ目に本尊が挟まってしまい、なかなか引き上げることができず、引き上げた時に右手に擦り傷ができたことに由来します。
 十一面観音像は高さ二尺五寸(約75cm)ありました。1986年(昭和61年)10月20日、観音寺は全焼してしまい、仏像も焼失してしまいました。

写真撮影:2008年08月15日
広告
メインコンテンツ
家庭の医学
身近な植物図鑑
身近な昆虫図鑑
身近な野鳥図鑑
身近な貝殻図鑑
身近な生き物図鑑
ベランダ園芸
三浦半島観光地図
コミュニティ
広告
広告
広告
広告
  横須賀市-鴨居  
観音崎地中地震観測所 そらいろネット 観音寺跡
Copyright そらいろネット All right reserved.