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横須賀市太田和史跡巡り・観光名所案内

太田和の歴史

 三浦半島の南東部西岸に位置します。矢城山(弥二郎山)は、鎌倉時代の三浦一族の大多和三郎義季の館だった大田和城址と言われています。
 太田和の鎮守の三浦正八幡宮がありますが、この地が鶴岡八幡宮の領地だったことから祭神を勧請して建てられた神社です。また、イルミネーションで有名な相武幼稚園、ツツジが綺麗な太田和つつじの丘(太田和緑地)があります。

 鎌倉時代から確認できる地名で、相模国三浦郡の大多和村でした。専属時代には大田和郷ともあります。
 弘安7年12月13日の関東御教書に、「右大将家法華堂領相模国林郷大多和村内田参町、畠壱町、在家参宇事」とあり、源頼朝の法華堂領として禅衆分と認められていました。同じ年月日の関東御教書では、同じことが書かれたのち「次禅衆・預・承仕・下部等給分之外、当村除田壱町大参拾歩并在家弐宇」を大弐阿闍梨房成信が沙汰することを認めています。
 鎌倉幕府滅亡後の正慶4年8月12日の北条時行奉行人連署安堵状によれば、「法華堂禅衆清弁申、相模国林郷大多和村内田在家事、為寺領之処、有違乱之仁」と訴えており、関東静謐のうえは元通り法華堂が知行するべきで、なお違乱する者があれば処罰すると記されています。
 観応2年10月7日の相模守護三浦高通禁制では、「右大将家法華堂領三崎庄内大多和村」で甲乙人等が乱暴狼藉することを禁じています。
 貞治2年7月25日の関東管領奉書には、「相模国三浦大多和村当年領家分年貢銭事」とあり、領家である法華堂への年貢銭納入を地頭に銘じています。
 応永33年12月14日関東管領施行状では、鶴岡八幡宮相承院法印の要請で、淡路律師良助を法華堂供僧職一口に補任するとした9日付の鎌倉公方御教書を受けて、「寺領相模国三浦郡林郷大多和村内田参町・畠壱町弐段・在家参宇」を淡路律師に沙汰付けるように一色持家に命じています。
 これが実行されるのは翌年の応永34年2月17日相模守護一色持家遵行状によってですが、同年12月28日の鎌倉府奉行人連署奉書には、「相模国三浦郡大多和村事、於当村者、為供僧領之処、地蔵院雑掌混別当領内、雖掠給施行」とあり、法華堂供僧領としてのこの地の支配は動揺を見せるようになります。
 宝徳2年12月2日鎌倉府奉行人連署奉書に、「右大将家法華堂領相模国三浦郡大多和村内田三町<供僧分>・・・<沽脚(却)地事>為徳政被返付者也」とあり、買得人の綺を止めて元通り知行するようにと相承院に伝えられています。
 「檀那門跡相承資」のうち宝徳4年3月19日弘尊の記の中に、「義憲ト多年於千葉ニ学問セリ・・・義憲ハ三浦ノ大多和ニシテ、俗相伝ノ所領モアリ、外戚ハ上総介ノ一族也」と記されています。
 享徳4年7月10日某禁制は、「法華堂領三浦太田和村内相烝(承)院知行分ニ口事」に対する軍勢甲乙人等の乱暴を禁じています。
 天文5年9月1日北条為昌寄進状には、鶴岡八幡宮で祈祷のため護摩を執行しているので、「三浦郡之中、太多和村」は改沙汰に及ばず寄進する旨が記されています。
 天文10年9月日の快元供僧職譲状では、「鶴岡八幡宮供僧職<号相承院并法華堂職>」が融元に譲られていますが、「大田和村度々錯乱」とあり、この地の維持が相当困難だったことがわかります。
 天文19年6月18日の北条氏康判物に、「三浦郡大田和郷、近年竜源被致代官検地之上、本増合百拾七貫文」とあり、大田和郷を検知した結果、増分117貫文が打ち出され、そのうち67貫文は相承院が所務すべきであるとしています。
 「役帳」 にも、寺領の項に「雪下御院家中 百拾七貫文 三浦 太田和」とあり、検地を経た117貫文で登録され、雪下相承院の所領と認められています。
 天正14年9月17日の北条氏直判物に、「三浦郡大田和郷百拾七貫文之事、先御証文之筋目、不可有相違者也」とあり、相承院空元に安堵されています。
 豊臣秀吉に差し出された天正18年7月17日の鶴岡八幡宮領注文には「百十七貫文 <三浦之内>大多和郷 但廻御影勤行領」と記されています。

 江戸時代〜明治22年は、三浦郡の大田和村でした。太田和村とも書きました。
 寛永10年は幕府領、元禄10年は旗本有馬氏知行、幕末は幕府領でした。
 村高は、「元禄郷帳」、「天保郷帳」、「旧高旧領」ではともに438石余です。
 「三浦古尋禄」では、家数84軒。
 「新編相模」では、江戸から16里、家数97軒、東西78町・南北30町余、鎮守は八幡社、寺院には浄土宗満宗寺・専養院、日蓮宗本住寺・善応寺があります。村南に小田和海から江戸まで海上21里です。南部を三浦往還が通ります。
 明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。
 明治22年、武山村の大字となります。
 明治24年、戸数95、男326人・女298人。

 昭和18年、横須賀市の大字となります。
 昭和45年、林1丁目〜5丁目、御幸浜、太田和1丁目〜5丁目になり、横須賀市の町名となりました。

地名の由来

 現在は「太田和」になっていますが、「大多和」、「大田和」とも書きました。
 山の向こう側に越えたところを「タワ」や「トウ」と呼んだことから、峠に由来する地形由来地名です。

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