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十劫寺を示す石塔。とても立派な大きな石塔です。碑文を見ると本来は念仏講の石塔だったようなんですが、庶民信仰の念仏講でこれほど大きな石塔を建てるのは珍しいかもしれない。
十劫寺は浄土宗のお寺で、正覚山専求院と言います。開山は江戸の芝、西応寺の僧である厳譽によります。開基は地元上宮田の豪族、松原新左衛門です。昔は真常寺と言いましたが、元和元年に松原氏の再建によって十劫寺と改めました。でも説明看板には、正覚山専求院って書いてある・・・。本尊は阿弥陀如来で、開祖は松原新左衛門です。三浦不動尊の第8番目札所です。
笹塚不動明王像は、1969年(昭和44年)3月26日、三浦市指定文化財に指定された彫刻です。もとは京急三浦海岸駅の近くの笹塚(字道場・あざどうじょう)という陣屋に祭られていたことから、この名で呼ばれるようになしました。その後、諏訪神社に移されましたが、明治時代の神仏分離の際、現在の十劫寺に移されました。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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広々とした境内は、とても静かな雰囲気です。海のお寺のイメージにピッタリです。いいですね、こういうお寺って。
笹塚不動明王像は室町時代の作品で、高さは76cm、膝張は63cmになります。寄木造、玉眼嵌入の坐像で、右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持っています。彩色は肉身のみ漆塗りで、左肩からかかる条帛(じょうはく)は、朱の地色に牡丹の唐草模様と金泥の極彩色が施され、絢爛たる昔をしのぶことができます。
尊容は、誇張した眉の隆起と、大きく見開いた両目の鋭さ、下唇を噛む口元には憤怒の形相が現れています。頭髪は巻き髪で、辮髪(べんぱつ)を左肩の上に垂らしています。
笹塚不動明王像の底部には、以下のような墨書銘があります。
鎌倉大仏所師 法眼 泉円
天文十五年九月廿八日本願■■■■ |
写真撮影:2008年02月29日 |
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誰もいなかったので、こっそり本堂の中を覗き見しちゃいました。とっても綺麗な本堂です。
笹塚不動明王像は見えるかなーなんて思って探したんですが、それらしき像は見当たりませんでした。どこか人目に触れない場所で、大切に保管されているのかな。
後北条氏が三浦半島を支配していた頃、房州の里見義弘はしばしば三崎の地に攻撃をしています。1567年(永禄10年)、里見氏は水軍を率いて、菊名沖に来襲しました。この時、北条綱成は海上で風雨のために方向がわからず、右往左往していました。
これを見ていた松原新左衛門は船を出し、門灯を立てて北条軍を導いたため、勝利を得ることができました。松原新左衛門はこの功によって士分に取り立てられました。1567年(永禄10年)9月27日、里人と共に笹塚不動堂で神楽を奏し、その喜びを分かち合ったと伝えられています。
これ以来、この日を例祭日としています。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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いちょう会館は、葬儀場・斎場でしょう。
「いちょう会館」と書かれていましたが、十劫寺の境内に植栽されているイチョウの木に由来していると思われます。十劫寺に植栽されたイチョウの木は三浦市の保護樹木で、オスのイチョウの木です。
鎌倉仏師の泉円は、快円の親にあたります。この時代の作品で、造立年代と作者まではっきりしている像はとても貴重な存在です。開帳は正月、5月、9月の28日に一般にも公開されているようです。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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気が付かづに通り過ぎてしまったのかもしれない、石橋参道。どこかに石橋があったのかなー?気が付かなかったけどなぁー。
現在はすでに廃寺になりましたが、三浦市初声町高円坊と三浦市初声町和田の境界あたりに、大井山五劫寺という寺院がありました。初声保育園の手前あたりになります。
五劫寺と十劫寺、名前がとても良く似ていますが、何か関係があるのでしょうか? |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師たちの墓が、6基並んでいました。それぞれ1枚ずつ写真を撮りましたが、なんて書いてあるのか読めなかった・・・
マカセ漁とは、マカセ網という大型の網を使って行う漁法のことです。江戸時代、マカセ漁というのは新しい漁法で、紀州(現在の和歌山県)に住む人々が各地に移住して広がっていきました。三浦半島以外にも、静岡県や房総半島では、マカセ漁は盛んだったようです。
紀州に住む人々のバイタリティーって、すごいものだなーと感心してしまいます。戦国時代では、火縄銃も紀州の人々が日本各地を転戦しているし。
マカセ漁はおもに、イワシを漁獲するための漁法です。捕れたイワシは食用にするのではなく、干鰯(ほしか)として肥料に使われるものです。干鰯は地元で使われることはほとんどなく、干鰯問屋を通じて江戸に運ばれていました。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師のお墓、二号機。
墓石には「万右衛門」、「与四太郎」、「惣右衛門」と、それぞれ俗名と没年が刻まれています。紀州からの移住者のお墓はもっとたくさんあったと言われていますが、十劫寺に残っているのは6基だけです。
来福寺にもマカセ漁師の墓が1基、津久井の東光寺には俗名「田中武右衛門」とその子「銀蔵」の墓が2基、残されています。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師のお墓、三号機。
三浦半島には、多くの紀州の人々が移り住んでいます。多くが魚を追って、三浦半島までやってきました。紀州雑賀地方出身で、歴史的にも有名な雑賀衆・雑賀党の末裔もそうです。現在の「さいか屋」は、江戸時代の雑賀屋からきています。
紀州から移り住んだ人々は、武士は「雑賀」や「鈴木」を名乗り、町人は「安田」や「岡本」を名乗りました。これらの名字は現在でも、三浦半島に多い名字となっています。それだけ、三浦半島では紀州の人々の影響を強く受けているということでしょうか。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師のお墓、四号機。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師のお墓、五号機。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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マカセ漁師のお墓、六号機。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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現在の庫裡は、1890年(明治23年)に松輪村の名主である太郎兵衛屋敷を移築したものだそうです。
たぶん本堂で使われていた鬼瓦だと思います。現在は屋根が新しくなっているので。鬼が描かれていなくても、いちよ鬼瓦って言います。
たまに顔の大きな人のことを、鬼瓦と揶揄することもあります。
家紋は矢ですか?「違い矢」か「丸に違い矢」かな?浄土宗では杏葉が宗紋に定められていますが、浄土宗のお寺なら必ず杏葉ってわけじゃないみたいです。 |
写真撮影:2008年02月29日 |
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