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防衛大学走水海上訓練場


防衛大学走水海上訓練場

バス停南谷戸下車 徒歩1分
地図
防衛大学走水海上訓練場
防衛大学走水海上訓練場

 旧海軍走水防備隊です。現在は、防衛大学で海上要員となる者に対する訓練場です。防衛大学関連の敷地内のため、立ち入り禁止となっております。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・防衛大学校
 背後の岬が伊勢山崎。この出崎には走水でもっとも古い家柄だったと言われる大新明、小新明の2軒の家がありました。大新明は磯の先端にあたる鼻にあったので屋号を「いそのはな」と言い、小新明は「おくのうち」と言う屋号でした。
 この何代目かに「新明の小天狗」と呼ばれる柔道の達人がいました。大男の小天狗の技と力量は房総半島でも知られ、神明の名を知らない人はいないほどで、房総半島へ漁に出た走水の漁師は「走水から来た」と言ってもわかってもらえませんでしたが、「新明から来た」と言えばわかってもらえるほど有名でした。
 伊勢山崎には伊勢宮が祭られていたと伝えられていますが、この神社と新明家とは何らかの繋がりがあったと思われます。

写真撮影:2008年04月02日

防衛大学走水海上訓練場

バス停南谷戸下車 徒歩1分
防衛大学走水海上訓練場
防衛大学走水海上訓練場

 伊勢山崎の鼻に当たる部分。「鼻」は岬の先端のことです。軍用地となってからは、造成工事などによって地形が変わってしまったかもしれません。
 かつては伊勢山崎の鼻に「オコンドバッコ」と呼ばれる磯がありました。やや傾斜した地層が洗濯板をタライの水に差し込んだように海に入る場所で、明治時代に観音崎に砲台が作られるまでは、ここを通って観音崎に出なければなりませんでした。
 この磯を「オコンドバッコ」と呼ばれるようになるには、ある伝説が関係しています。走水村にオコンさんという働き者の嫁がいて、この場所にアサリ採り来て行方不明となってしまいました。それ以来、この場所をオコンドバッコと呼ぶようになりました。
 「バッコ」とは三浦半島の方言のひとつで、波の浸食で出来た岩のくぼみのあるような波打ち際のことです。海底にはくぼみが深く入り込む場所があり、とても危険な場所でした。「ド」は接頭語で、オコンの岩場といった意味になるのではないでしょうか。
 今では知る人も少なくなってしまった伝説ではありますが、昔の人々はこうした伝説を危険場所に添えて、子供たちにその場所を教えて語り継がれていったのだと思います。
 しかし日露戦争前後、走水周辺は首都東京を守るための防衛施設が築かれるようになりました。オコンドバッコと呼ばれる場所のすぐ近くに魚雷発射施設が増築され、地元の人々も近付くことができない場所になってしまいました。

写真撮影:2008年04月02日

防衛大学走水海上訓練場

バス停南谷戸下車 徒歩1分
防衛大学走水海上訓練場
防衛大学走水海上訓練場

 後ろに見える岬は、伊勢山崎です。十石崎とも呼ばれます。
 防衛大学走水訓練場は立ち入り禁止となっていますが、背後から回れば伊勢山崎や謎の廃墟に行けるのではと思いましたが。裏側は防衛大学走水宿舎となっていました(TωT)
 残るは海水浴シーズンに、海水浴客を装い海上からの侵入しかありませんね。
 背後に見える小高い丘の崖面には、「伊勢山崎横穴古墳群」がありました。旧日本海軍による造成工事中に発見され、瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)、金銅製耳鐶、須恵器フラスコ瓶のほか、多数の土器が出土したとされていますが、詳細はわかっていません。
 遺物の一部は、走水神社で保管されています。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水神社

写真撮影:2008年04月02日

走水第三砲台見張小屋跡

バス停南谷戸下車 徒歩1分
走水第三砲台見張小屋跡
走水第三砲台見張小屋跡

 明治27年2月に造られた走水高砲台の遺構のひとつです。昭和2年3月、走水第三砲台と改称されました。実際の砲台の場所は、走水神社背後の台地の辺りです。第三海堡と走水低砲台の海面を射撃して、低砲台を援護するのが目的でした。
三浦半島観光地図:横須賀市平成町・うみかぜ公園
 当時は見張り台として使われていたようです。たぶんだけどね。
 1843年(天保14年)、江戸湾防備の当たっていた川越藩によって「十国台場」が置かれていました。旗山崎にも川越藩によって台場が築かれました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・旗山崎
 大泉寺には、当時の川越藩士のお墓があります。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・大泉寺
 三浦半島では1810年(文化7年)に会津藩が江戸湾警備に就いた時から、人々が開国へ向けゆっくりと動き出しました。城ヶ島の3ヶ所に台場を建設し、ここへの応援を三浦半島の村へ役として言い渡しました。村高8石に1人の割合で村から応援人数が決められ、この村人たちを「駆け付け人足」と呼んでいました。漁村では船を出すことも命じられ、人と船は毎月決まった日時に訓練が行われ、鎌倉のはずれからも横須賀市の鴨居や三崎に訓練に出てこなければならず、村にとっては大きな負担となっていました。
三浦半島観光地図:三浦市三崎町城ヶ島
 村の負担は、時代が下るにつれ台場の数が増加し、より一層大きなものとなっていきました。この背景には江戸幕府の異国船対応の変化がありました。ペリーが来航するまでの江戸幕府の異国船に対する基本姿勢は、観音崎と千葉県富津を結んだラインから奥への異国船を入れぬことであり、そのための台場増設でした。

写真撮影:2008年04月02日
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