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旗山崎・御所ヶ崎
旗山崎・御所ヶ崎
この場所はふたつの地名を持ち、旗山崎と御所ヶ崎と呼ばれています。公園の名前が旗山崎公園なので、旗山崎の方が一般的なのかな?1977年(昭和52年)、横須賀市市制執行七十周年記念として横須賀風物百選に選ばれています。
地元に伝わる伝説によれば、日本武尊が上総に渡る時に海が荒れていて進むことができなかったのでこの場所に臨時の御所を設けたことから、「御所ヶ崎」と呼ばれるようになりました。御所の背後の山に軍旗を立てたことから「旗山崎」とも呼ばれるようになりました。
古事記や日本書紀によると、日本武尊が東国征伐の際、走水から上総(現在の千葉県)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めなくなってしまいました。そこで弟橘媛命は海神の怒りを鎮めるために、身を投じて荒れ狂う海を鎮めました。
御所ヶ崎の先端には「むぐりの鼻」と呼ばれる場所があり、侍女たちが身を投じた場所だと伝えられています。侍女たちを祭る橘神社がありましたが、1885年(明治19年)、陸軍用地となったため走水神社境内に移されました。1909年(明治42年)、橘神社は走水神社に合祀されました。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水神社
走水港には、日本武尊が海を渡る時に乗船したと言われる「寺島」、または「御座島」があります。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水港
日本武尊が東征に利用した道が、古東海道と言われています。足柄峠を越えて相模国に入り、三浦半島を横切って衣笠の宗源寺の天神坂あたりから安房口神社、小原台、走水を経て、上総(現在の千葉県)に渡る道順と考えられています。
三浦半島観光地図:横須賀市久郷町・曹源寺(宗元寺)
1590年(天正18年)、徳川家康が関東に入封しました。
1624年(寛永元年)、徳川三代将軍徳川家光の命令により、三崎とこの場所に海関が置かれました。走水では下り船を、三崎では上り船を改め警備しました。
1641年(寛永18年)、江戸時代になり、向井将監忠勝(向井正方の父)を兼務の奉行として、三崎奉行所の元に走水番所が置かれました。
向井一族の墓は、すぐ近くの覚栄寺にあります。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・覚栄寺
1645年(正保2年)、走水奉行所に昇格し、江戸湾の防備と船舶の往来の関所になりました。
1696年(元禄9年)、走水奉行所は伊豆下田の奉行所に統合され、廃止されました。翌年には、建物はことごとく取り壊されてしまいました。
番所の敷地は1万平方メートルに及び、御船奉行の代官屋敷、船蔵、与力同心の屋敷も置かれました。海辺には現在、走水小学校がありますが、その辺り一帯は同心町と呼ばれていました。与力や同心の家々があったということです。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・走水小学校
1843年(天保14年)、川越藩が永島庄兵衛に命じて、江戸湾海防のために旗山崎、十石崎、猿島にお台場を築き、異国船の侵入に備えました。『近海見分之図』によれば、6挺の大砲、急を知らせる狼煙を試射した様子が描かれています。川越藩士の墓は、走水の大泉寺、円照寺、大津町の信誠寺などに残っています。
三浦半島観光地図:横須賀市走水・大泉寺
三浦半島観光地図:横須賀市走水・円照寺
三浦半島観光地図:横須賀市大津町・信誠寺
江戸湾防備のために設けられたこれらの砲台は、ペリー来航の際は、ほとんど効果をあげることはありませんでした。浦賀奉行所の指示で松の大木を切り倒して墨を塗り、黒船に向けて並べ、台場を守る者たちは鍋を頭にかぶって山に逃げてしまいました。多くの大砲を見せて威嚇するつもりでしたが、ペリーはその様子を望遠鏡で見物し、大笑いされてしまったというエピソードがあります。
1886年(明治19年)、日本帝国陸軍によって築かれた半円形の走水低砲台が、雑木林の松の木の下に現在でも残されています。走水低砲台と第三海堡の間の海面を射撃して、敵艦の通行を途絶するのが目的として建設されました。臨機応変に観音崎砲台、猿島砲台の側面を防御することも任務となっていました。走水低砲台を援護する目的で、走水神社背後の台地辺りに走水高砲台が設置されました。
三浦半島観光地図:横須賀市平成町・うみかぜ公園(第三海堡が展示)
三浦半島観光地図:横須賀市猿島
走水低砲台|横須賀市走水
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バス停走水上町下車 徒歩3分
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旗山崎・御所ヶ崎の写真
日本武尊と弟橘媛命の伝説の地、御所ヶ崎です。現在は旗山崎公園となっています。これといった遊具などが設置されることもなく、とても広々とした落ち着いた公園です。
旗山崎公園のこの先に、砲台跡があるはずです。フェンスがあるので、乗り越えないと砲台跡地に辿り着くことはできないみたいです。
横須賀市は古い物はどんどん壊して、新しい箱物を作ろうとする習慣が強いので、砲台跡の遺構などは貴重な物なので保存して残しておいて欲しいですね。行政は本当に大切な物がわからないみたいで・・・。走水砲台は、観音崎の砲台と同じように、保存状態の良い遺構となっています。
このフェンスの先に走水低砲台があります。
見学を希望する場合、猿島公園専門ガイド協会かNPO法人よこすかシティガイド協会に連絡をすればガイドさん付きで案内してもらえます。
公衆トイレと併設されている横須賀市下水道走水ポンプ場。
史跡巡りや植物観察をしていると、正直なところトイレに困ることが多いんですよね。観光地なら公衆トイレもありますが、私が巡る史跡は観光地ではないためトイレがないこともしばしば。あったとしても、感染症にでもなっちゃうんじゃないかとか、靴が汚れるとかって思うくらい汚いトイレだったりとかして。
こうしてちゃんとした公衆トイレがあるのは、とてもありがたいです。
旗山崎から見た海の景色。海水が透き通っていて透明度も高く、海底の様子まで見ることができます。
旗山崎の先端まで行ったわけではありませんが、これだけ東京湾の見晴らしが良ければ砲台を作るには最適の場所だなーと感じることができます。
公園内のフェンスを乗り越えるか、公園の左右どちらかに迂回すれば、釣りができるポイントもありそうです。
とっても頑丈そうに組み上げられた石垣。隙間なく、上手に組み合わされています。
この石垣は砲台を造ったときに、護岸工事されたものだと思います。損傷を受けることなく今でも残っているなんて、すごいですね。
フェンス越しにしか確認できませんでしたが、とてもしっかりした護岸工事がされています。
バーベキューと打ち上げ花火は禁止されているようです。
走水神社に所蔵されている、弟橘媛命の入水の図です。荒ぶる神を鎮めるために、荒ぶる髪をした弟橘媛命が身投げして怒りを鎮めたという伝説です。
この当時から、女性の髪は長かったんですね。なんとなくメーテルのように見えるのは気のせいでしょうか・・・。エメラルダスっていう雰囲気ではないですよね。やっぱり、メーテルですよね。峰不二子とも違うし。
まあ、ハッキリいって、メーテルでも峰不二子でも、どっちでもないんだけど。
遠くから見た御所ヶ崎の様子。砲台を築くのには、ちょうど良さそうな場所ですね。周囲を海に囲まれている上、やや高台になっているので砲撃に有利です。
この写真が撮られた時には、すでに砲台はなくなっているみたい。絵葉書には御所ヶ崎公園と書かれてありました。
明治時代になると、さらに東京湾口に数々の砲台が築かれ、明治26年頃には15もの砲台が築かれました。これらの砲台軍は日清戦争・日露戦争に備えるものでしたが、その後に飛行機が発達し砲台は廃止されていきました。関東大震災では、多くの砲台が崩壊してしまいました。
1934年(昭和9年)、重砲兵学校の演習砲台として使用されるようになりました。
「ローエングリン発射!!」って感じに、ものすごい勢いで大砲が発射されています。
実はこの絵は、実際に大砲を発射しているわけではなく、狼煙(のろし)として使用した空砲です。発射の際の音と煙で、異常を知らせるものだと考えられます。
現在でも護衛艦には大砲が装備されていますが、発射時に音はしますが煙はほとんど出ません。使われている火薬の違いによるものです。当時は黒色火薬が使われていましたが、現在はより威力のある無煙火薬が使われています。
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