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浄土宗のお寺で、宮谷山至心院信楽寺といいます。「しんぎょうじ」と読みます。
開山は1504年(永正元年)、証誉上人によると伝えられています。
本尊は運慶作と伝えられている阿弥陀如来です。脇侍の観音菩薩、勢至菩薩は久比里の宗円寺の本尊を譲り受けたものだそうです。もし本当に運慶の作だったら国宝級なので、実際には運慶の作ではないと思われます。
地蔵菩薩を祀り、三浦地蔵尊二十七番札所になっています。
本尊の阿弥陀如来のそばには、行基の作の聖観音像があります。熊谷次郎直実は一の谷の合戦で、我が子の年齢と変わらない若武者、平敦盛を討ち取った武将です。後に出家して蓮生坊という僧になりました。そして行基が作った聖観音像を守り本尊として大切にし、熊谷寺(埼玉県熊谷市)に安置していました。これを近江国の大津(滋賀県の大津)の信楽寺に送ろうとしたところ、使者が間違えて相模国の大津の信楽寺に納められたとのことです。
三浦半島の歴史:横須賀市久比里・宗円寺
三浦半島の歴史:人物事典・熊谷直実 |
| 撮影:2006年12月02日 |
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墓地には、幕末の志士・坂本龍馬の妻であった龍子のお墓があります。以前はお寺の入り口付近にありましたが、移動したようです。毎年、秋の墓前祭に合わせて、龍子を偲び「おりょうさんまつり」が行われます。
裏山には梵鐘があるらしいのですが、見付かりませんでした。おりょうさんのお墓の脇に上に登る小道があったので、そこの上にあるのかもしれません。
このお寺にも防空壕らしき横穴がありました。遺跡なのか防空壕なのかわかりませんが、この近辺には多いですね。
以前、このお寺の近くから向井将監正方夫妻のお墓に行けたはずなんですが、道がわかりませんでした。実は、このお墓に行くのが史跡巡りの目的だったんですが(T_T) |
| 撮影:2006年12月02日 |
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江戸時代末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の際、坂本龍馬の危機を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医者楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保11年説もありますが、横須賀市に残る除籍簿では、1850年(嘉永3年)6月6日となっています。
名前は「りょう」や、「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようです。
坂本龍馬は1867年(慶応3年)11月15日、京都の醤油商近江屋で京都守護職の配下の見廻組与力の乱入を受けて斬り付けられ、33歳の若さで暗殺されました。
未亡人となった龍子は、坂本龍馬の実家がある土佐(現在の高知県)に移り住みましたが、長続きしませんでした。その後、京都、大阪、東京と、明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況に関しては、さまざまな説があり、現在のところ正確にはわかっていません。
はっきりとわかっているのは明治8年7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛の家に「西村ツル」として入籍しています。そして、明治39年1月15日の午後11時に亡くなっています。
さまざまな資料によれば、坂本龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続だったようです。
龍子の葬儀は、知人、隣人の助力により、明治39年10月20日にささやかに営まれました。
遺骨は、当時の信楽寺住職の新原了雄師の好意によって、新楽寺に葬られました。お墓は、実の妹の君枝や、鎮守府長官井上海軍大将、住職などの援助を受けて大正3年に建立しました。墓石は海軍工廠が寄贈したものです。
三浦半島の歴史:人物事典・坂本龍馬
三浦半島の歴史:人物事典・坂本龍子
三浦半島の歴史:人物事典・井上成美 |
| 撮影:2006年12月02日 |
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保久利地蔵と書いて、「ぽっくりじぞう」と読みます。
かつて、99歳で亡くなったおばあさんがいました。最後まで、病気をすることなく、天気が良ければ田畑で野良仕事をし、雨の日には家内で縫い物に励むなど、とても丈夫な人でした。
信心深い人柄で、いつも仏を念じて、粗衣粗食に甘んじて周囲の人たちに尽くした姿は、まるで生きる地蔵菩薩のようだったそうです。
そこで、一周忌にあたって建立されました。
地蔵菩薩とは、様々な悩みや苦しみにもだえる我々を救ってくれる菩薩様です。保久利とは、このようなご利益を永久に保ってくれるという意味とのこと。てっきり、苦しまずにポックリ逝けるのかと思って、熱心にお祈りしてしまった(^^ゞ
六地蔵とは、地獄は苦を代わり、餓鬼は飢渇を除き、畜生を解脱し、修羅を調伏し、人間を済度し、天上は五哀を離るのだそうです。あまり意味はわかりませんが、とりあえず凄そうだ。 |
| 撮影:2006年12月02日 |
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