ヴェルニー公園 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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以前の臨海公園です。
幕末、横須賀製鉄所の建設と運営を手がけ、日本産業の近代化に貢献したフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの業績をたたえて名付けられた公園です。
公園の園路や花壇は、フランス様式の庭園を模して作られています。園内に植えられた約2000本のバラはフランスで育成された品種を中心に、日本、アメリカ、ドイツなどの品種も織り交ぜています。
公園内には、じつにさまざまな石碑が建てられています。
海を見れば、正面にはアメリカ海軍の潜水艦やイージス艦、フリゲート艦などの艦船を見ることができ、左側には海上自衛隊の護衛艦を見ることができます。
三浦半島の歴史:横須賀市東逸見町・ヴェルニー記念館 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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ヴェルニー公園 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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ヴェルニー公園は綺麗になりましたねー。以前の臨海公園時代は、夜間に歩くのはちょっと怖いなって感じのする公園だったのですが。でも、JR横須賀駅から、京急汐入駅に行く場合は、ここを通ることが多くて。
でも、たくさんの木々が植えられており、自然が豊かな良い公園でもあったんですけどね。
かつてこの地域は水ヶ浦と呼ばれていました。
明治時代初期に横須賀が帝国海軍の本拠地となる海軍衣糧科、海軍需品庫などが次々と建設され、昭和3年に両者が合体して海軍軍需部となり田の浦に移転するまで、ここが海軍の艦船や陸上部隊への軍需品の供給基地となり、通りに面して商店・旅館・料亭などが建ち並び、とてもにぎわっていました。 |
| 写真撮影:2007年05月21日 |
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洋風あずまや |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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これがチャペルっていうやつなのかなーと思ったんだけど、「洋風あずまや」なんだってー。これは予想外だったー!!「あずまや」だよ、「あずまや」。なにか間違ってると思わない?
これを「洋風あずまや」と呼ぶのは、ちょっと難しいなぁー。
もしかして、僕が間違ってるのかな?あんまりにも突拍子もない名前なので、自信がない・・・。メモの取り間違いかもしれない。あー、だんだん頭が混乱してきたー。 |
| 写真撮影:2007年05月21日 |
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逸見波止場衛門 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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旧横須賀軍港逸見門の衛兵が詰めて番をしていたところです。
左右二棟あり、左側には「逸見上陸場」、右側には「軍港逸見門」と書かれた表札がついています。
建築年代は、明治時代末〜大正時代初期と考えられています。
戦後は軍港として隔てられていた塀も取り払われ、臨海公園として市民の憩いの場となりました。ヴェルニー公園となる前までは、かつて使われていたと思われる線路の引込み線などがありましたが、それも取り払われてしまいました。
横須賀市の指定市民文化遺産に指定されています。
たぶん公衆トイレとして使う人がいるんだと思います、鉄製の門で入り口はふさがれていました。 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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ヴェルニー胸像 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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この公園の主人公です。
フランソワ・レオン・ヴェルニー(1837年〜1908年)。
フランス人の造船技師で、海軍の増強を目指した徳川幕府の要請によって、横須賀製鉄所建設の責任者として1865年に来日しました。
明治維新後も引き続き、建設と運営の任務に当たり、観音崎灯台、走水の水道、レンガの製造、製鉄所内の技術学校を設け、日本人技術者の養成に努めるなど、造船以外の分野でも広く活躍し、1876年に帰国しました。
三浦半島の歴史:人物事典・フランソワ・レオン・ヴェルニー |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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小栗上野介忠順胸像 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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この公園の副主人公とでもいうべきでしょうか。
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)。1827年〜1868年。
日本初の遣米使節をつとめ、外国奉行、勘定奉行など、徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもとに横須賀製鉄所(造船所)建設を推進しました。
軍政の改革、フランス語学校の設立など、日本の近代化に大きく貢献しましたが、大政奉還後に徹底抗戦を主張したため役職を解か、領地の上野国権田村(こうずけのくにごんだむら、現在の群馬県倉渕村)で官軍によって斬首されました。
三浦半島の歴史:人物事典・小栗上野介忠順 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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烏川水沼河原の石 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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小栗上野介が斬首された上野国権田村(現在の群馬県倉渕村)の烏川水沼河原の石です。
昭和28年に臨海公園で行われた開港祭を機会に、倉渕村から寄贈されました。
彫りが浅くて、ちゃんと読むことができませんが、中央に建っている石に、昭和28年に倉渕村から寄贈された旨が刻まれています。
三浦半島の歴史:人物事典・小栗上野介忠順 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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開港碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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正岡子規句碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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明治21年(1888年)8月、正岡子規は夏期休暇を利用して、友人と汽船で浦賀に着き、横須賀・鎌倉で遊びました。
碑の句は、横須賀港内に連なる帆柱の印象を詠んだもので、句集『寒山落木』に収録されています。
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)に生まれ、本名は常規といいました。
松山中学校時代は政治家志望でしたが、上京後は文学に転じ、文科大学国文科(現在の東京大学)に進学しました。
写実(写生)を主張して、空想を排する俳句の革新を行いました。その考えを新聞『日本』紙上に『獺祭書屋俳話』、『』俳諧大要として記しました。また、句作は生涯に2万句を数え、明治25年〜明治31年までは毎年1000句以上を作りました。明治30年には『ホトトギス』が創刊され、子規派の雑誌として注目されました。
一方、明治30年には『歌よみに与ふる書』を『日本』に掲載し、短歌の革新にも着手。俳句で主張した写生を短歌にも及ぼしたものでした。
正岡子規は明治35年(1902年)9月19日、35歳で亡くなりましたが、彼の主張は、俳句では高浜虚子、河東碧梧桐らが継承し、短歌では斉藤茂吉、島木赤彦らのアララギ派に受け継がれました。写生文は夏目漱石、伊藤左千夫ら後継の文学者に影響を与えました。
三浦半島の歴史:人物事典・正岡子規
家庭の医学:肺結核 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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軍艦沖島の碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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軍艦沖島と書かれていますが、日本海海戦で降伏したロシア艦のゲネラール・アドミラール・アプラークシンのことでしょうか?機雷敷設艦の沖島のことでしょうか?振り仮名では「おきのしま」と書かれてありました。刻まれた文章の感じからすると、機雷敷設艦の沖島のことでしょうか。
石碑には以下のように刻まれています。
軍艦沖島の碑
原始
海は生命の故郷であった
その海に果て
その海深く眠る
戦友たちの御魂やすかれと
いのちながらえしもの
あい集い
再び
いくさあらすなと
ねがうものなり
浮雲一片流北辰 何人不起望郷情
有時霊魂亦還家 夜半南星漂蒼海 |
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| 写真撮影:2006年07月25日 |
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軍艦長門碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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軍艦長門は日本海軍の戦艦で、竣工当時は世界最大の41cm主砲と高速な機動力を持ち、太平洋戦争開戦時は連合艦隊旗艦として連合艦隊司令長官山本五十六大将が乗艦していました。
戦艦陸奥と同様に、日本海軍を代表する戦艦として、国民から親しまれていました。
石碑には以下のように刻まれています。
軍艦長門碑
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の姿を
ここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとす
政一書 |
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| 写真撮影:2006年07月25日 |
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国威顕彰の碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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軍艦の艦橋を模した国威顕彰の石碑。
せっかく作られた石碑であるにもかかわらず、銘文が書かれていたであろう部分が剥ぎ取られてしまっています。
銘文の書かれてあったであろうプレート部分以外にも剥ぎ取られた跡があることから、誰かが意図的に剥ぎ取ったものではないかと思われます。横須賀市の方針によって剥ぎ取られたのか、一般の人によって剥ぎ取られたのかはわかりませんが。軍国主義をイメージさせるという理由から剥ぎ取られたのではないかと思います。 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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軍艦山城之碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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軍艦山城は、横須賀鎮守府菅下最初の超弩級戦艦として、1915年11日3日に進水し、1917年3月31日就役しました。当時は世界最大の戦艦となりました。しかし主砲を搭載するための重量を軽減するために、側面の装甲を削り、防御面では不安の残る戦艦でした。就役後もトラブルが相次ぎ、たびたび改修を行いました。
太平洋戦争が勃発するや各地に転戦し、戦局の変化によって悲惨な運命となった昭和19年10月捷一号作戦において西村艦隊の旗艦として比島(フィリピン)スリガオ海峡に突入し、数倍に及ぶアメリカ艦隊と激戦、集中砲火の的となり、魚雷艇、駆逐艦の魚雷攻撃を受け弾薬庫に引火し大爆発しました。乗員1600余名と共に、スリガオ海峡の海底に沈みました。生存者は10名たらずでした。
亡くなられた方々のご冥福を祈り、追悼慰霊祭を行い、世界平和を願いを込めてこの碑を建立しました。 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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海軍の碑 |
京急汐入駅下車 徒歩5分
ヴェルニー公園内  |
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滑り台や、スケボー用のスロープではありません。海軍の碑です。
浦賀に黒船が現われ、鎖国の政治方針を破られた幕府は、横須賀の地に製鉄所を建設し、、近代海軍の創設を企画しました。
その後、明治維新によって明治新政府が樹立され、西欧諸国に比べて一世紀以上もの遅れを取り戻すため、日本の近代化に着手しました。特に海軍の整備が重要視され、日清戦争、および日露戦争を経て、海軍は次第に整備充実され、世界三大海軍国の一国としての地位を占めるようになりました。
こうした近代海軍の創設、成長という歴史の中で、横須賀は最枢要基地として、かつての一寒村から日本屈指の軍港都市になり、発展を遂げました。
しかし、昭和20年の太平洋戦争終結と共に、80年にいたる海軍の歴史を閉じることになりました。
海軍終息から50年の節目にあたる平成7年に、明治から太平洋戦争終結までこの地にあった日本海軍の歴史、太平洋戦争において亡くなられた多くの人々を偲びつつ、また日本の永遠の平和を願い記念碑が建てられました。
三浦半島の歴史:1904年・日露戦争 |
| 写真撮影:2006年07月25日 |
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