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 おりょう会館
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おりょう会館 京急横須賀中央駅下車 徒歩7分
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おりょう会館
おりょう会館
 資料館のような場所なのかなって思って行ってみたんですが、多目的ホールでした。いわゆる、斎場・葬儀場です。そんなわけで、観光・史跡巡り気分で写真を撮るわけにはいかないですね。
 龍子は、1847年(天保12年)、医師の楢崎将作と貞の長女として京都で生まれます。楢崎家は元は長州の武士でした。妹に次女・光枝、三女・起美、弟に太一郎、健吉がいます。一般にはお龍(おりょう)と呼ばれていますが、楢崎龍です。
 勤王家であった父は安政の大獄で捕らえられ、赦免後の文久2年(1862年)に病死し、残された家族が困窮していた頃に坂本龍馬と出会い、結婚して妻となります。龍馬の負傷療養のため、西郷隆盛のはからいで鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされています。、霧島山の頂にある天の逆鉾を引き抜いてしまうエピソードは有名ですね。
写真撮影:2008年05月16日

おりょう会館 京急横須賀中央駅下車 徒歩7分
 地図
おりょう会館
おりょう会館
 自分が写真を撮っている間、葬儀が行われているかもしれないし、そう考えると気が引けちゃいますね。控え目に写真をパチパチっと撮影して、そそくさと退散です。
 おりょう会館は、冠婚葬祭を行う株式会社メモワールの葬儀場です。ご遺体の衛生保全を目的としたエンバーミング技術を導入、故人の尊厳を守り最後のお別れを限りなくご生前に近い状態にし、残された方々に美しい印象を記憶に残します。霊霊安室、導師控室、遺族・親族控室、会席室、葬祭ホールがあります。
 龍子と龍馬の結婚生活も2年足らずで龍馬が暗殺されてしまいます。その後は未亡人となり、高知、京都、大阪、東京に流転の生活が続き、最終的には横須賀の地に移り住みました。
 坂本龍馬の妻でありながら、海援隊士からの評判も悪く、誰も生活を支援してくれる人は現れませんでした。
 坂本龍馬の妻、龍子が横須賀に住むようになったのは、1875年(明治8年)に作成された戸籍簿に名前があるので、明治時代初期と考えられます。移り住んだ理由は、米が浜に家があった呉服行商人の西村松兵衛と知り合い、再婚したことによります。そしえ名前を、西松ツルと名乗るようになります。西村松兵衛とは、寺田屋時代に出会っています。
写真撮影:2008年05月16日

龍子の胸像 京急横須賀中央駅下車 徒歩7分
 地図
龍子の胸像
龍子の胸像
 坂本龍馬の妻、龍子の胸像。おりょう会館の入り口にあるんですが、上手く写真が撮れないですね。逆光になってしまうので、肝心の顔が真っ黒になってしまいました。
 植物や昆虫の写真を撮ることが多く、常に順光での写真撮影を心がけているので、逆光時の写真撮影は慣れないから難しいです。
 斎場に、この地で亡くなった龍子の銅像が建つというのは、なんとも複雑な印象です。銅像の龍子は、晩年の姿を銅像にしているようで、斎場にふさわしい控え目な印象の銅像になっています。
 幕末に建設された横須賀製鉄所は、明治になると横須賀造船所と改称され、海軍の拡張と共に造船所も大規模化し、工員数も増加しました。横須賀の戸数は、1868年(明治元年)〜1879年(明治12年)までに7倍以上に増加しました。横須賀の街が急激に発展をしていた時、横須賀に移り住んできたようです。
 急激な発展に伴い、住宅地が不足したため、埋め立て事業が盛んに行われ、汐留町、湊町、若松町、米が浜などの市街地が誕生しました。
三浦半島観光地図:横須賀市汐入町
三浦半島観光地図:横須賀市若松町
写真撮影:2008年05月16日

坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地 京急横須賀中央駅下車 徒歩7分
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坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地
坂本龍馬の妻・おりょう終焉の地
 幕末の奇跡とうたわれた坂本龍馬のことは誰でも知っていますが、坂本龍馬の妻が横須賀市に在住し、この地で亡くなったことを知る人は意外と少なかったりします。観光地化されることもなく、ひっそりと金属製の碑が立てられています。
 龍子の再婚相手である西村松兵衛が横須賀に移り住んだのも、横須賀の急激な発展に合わせたものです。西村松兵衛の出身は現在の志賀玄、当時の近江でした。
 しかし、横須賀での生活は、毎日のように酒を飲んで、坂本龍馬の妻であったことを唯一の生き甲斐とし、夫の手を手こずらせるような生活だったと言われています。
 夫に先立たれた妹・光枝が龍子を頼るようになり、3人での生活が始まりました。酒に溺れる龍子を見兼ねてねか、やがて西村松兵衛と光枝が内縁関係になってしまいます。二人で龍子の元を離れて別居し、退役軍人・工藤外太郎に保護されて余命を贈ることになります。
 1906年(明治39年)1月15日、妹や夫に見守られながら、波乱万丈の人生に66歳で幕を閉じます。坂本龍馬暗殺後の生活は、幸せな生活だったとは言えないかもしれません。
 1914年(大正3年)、夫や有志によって、横須賀市大津町の信楽寺にお墓が建てられました。墓石は海軍工廠が寄贈したドッグ建設用の物が使用され、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子墓」と刻まれています。
三浦半島観光地図:横須賀市大津町・信楽寺
写真撮影:2008年05月16日
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