野比海岸に向かって建っている白髭神社。
アクセスはYRP野比駅から徒歩10分くらい。最光寺のすぐ近くになります。広い参拝者用駐車場はありますが、なぜかいつも柵がしてあって使うことができないようになっています。その一部分だけ開放されていて2台分くらいの駐車スペースがあります。
境内の階段を下りてまっすぐ野比海岸に向かうと、途中に大きな石製の鳥居があります。
背後には綺麗な円錐形の山があり、富塚山と呼ばれています。地元では「おにぎり山」とも呼ばれています。おむすびやまはフリカケなのでお間違えの無いように(^^;)
■ 由緒
資料から調べた由緒
祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)です。日本創生のころ、天孫降臨の際に、天津日高日子番能邇邇藝命(あまつひだかひこほのににぎのみこと)を先導したと言われています。道案内、道中安全の神様です。
創建年代は不詳です。大和・西国との往来がさかんとなった時代、近江の白髭神社の祭神を勧請し、波の荒い千駄ヶ崎の海上安全と、周辺の人々の守護安泰を祈願する社として、当地に祀られたものだと考えられます。
社伝によれば、1631年(寛永8年)、菱沼某、同志を募り社壇を富塚山(とがやま)南麓に奉還するとあります。1691年(元禄4年)、菱沼義行が、社殿倒壊を悲しみ、ふたたび里人とともに再建するとあります。社殿は、はじめは山の頂上あたりにあったようですが、江戸時代初期に現在地に移されたようです。
山頂付近に石窟がありますが、柵がしてあるため入ることはできません。
1873年(明治6年)6月、村社になりました。この時、天満宮、諏訪明神、貴船明神、子之神社、水神社などが合祀されました。
毎年7月15日前後の土日を選び、野比全体で例祭が行われます。
野比地区にも、浦賀と同じように虎踊りが伝えられています。伊豆下田の御幸神社の流れで、浦賀とほぼ同じ方法で行われます。虎は一体で、虎を中心に唐人姿(和唐内)にふんした子供、大人たちによって行われます。虎踊りが行われる場所は、神社前の駐車場です。
境内の碑文から
鎮座地 横須賀市野比1-26-1
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
合祀神 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、菅原道真公(すがわらみちざねこう)、経津主命(ふつぬしのみこと)、罔象女神(みずはのめのかみ)、豊斟渟尊(とよくむねのみこと)、水速男命(みずはやのおのみこと)、豊受大神(とようけのおおかみ)
境内社 稲荷社
例祭日 7月15日前後の日曜日
社殿 本殿 神明造(4坪)、幣殿 切妻造(4坪)、拝殿 入母屋造(7坪) 以上権現造。素木瓦葺 3棟1宇
境内坪数 1201坪
由緒沿革 往古、浦賀入港の船が野比千駄ヶ崎でしばしば遭難したので、これを憂えた住民が海上安全を祈って、とがさん(今の富塚山)山上に猿田彦神を勧請したと伝える。寛永8年(1631年)菱沼某が発起して洞山南麓に社壇を築き、神威に応えたのが現在の社地である。元禄4年(1691年)菱沼茂行等が社殿を再建し、その後安政2年(1855年)にも改築がなされた。
明治6年村社に列格、明治41年村内の稲荷社(瓊瓊杵尊)、天神社(菅原道真公)、諏訪神社(経津主命)、貴船神社(罔象女神)、子神社(豊斟渟尊)、水神者(水速男命)、神明社(豊受大神)を合祀した。
社殿裏の境内林富塚山は、遠方からもよく目立つ小高い山であるが、広範な樹種が分布し、植物学的にも貴重な宝庫として、昭和51年神奈川県指定天然記念物に指定された。
宮司 小池千頴、氏子総代長 布留川溶、副総代長 青木信次、志も総代 菱沼稔、東総代 菱沼藤雄、花輪総代 山田道夫、大作総代 貝田喜義、三町総代 坂部秀男
■ 白髭神社の社叢林
1976年(昭和51年)12月17日、神奈川県の天然記念物に指定されました。
白髭神社の社叢林は、野比海岸から約400mへだたった丘陵の南斜面の所在し、社殿の裏山全体が手を付けられないまま、良好な自然状態を維持してきている。
この社叢林は丘陵の急斜面において、海風を直接受けるという厳しい立地条件下にあり、風衝作用により樹高は抑えられ、10m~12m前後に過ぎないが、典型的なスダジイ林を構成している。
おもな樹種は高木層のスダジイのほかに、ヤブツバキ・シロダモ・シュロ・ヤブニッケイ・カクレミノ・イヌビワなどの常緑広葉樹が密生し、全山を常緑広葉樹林で覆っている。
海岸近くの土壌の浅い丘陵に自立する自然林として、永い世代にわたり集落の中に残してきた郷土林であり、伝統的な自然保護の実例として貴重であり、科学的研究や自然教育の立場も神奈川県の指定天然記念物として保護し、次世代に受け継いでいくことが必要である。
少し離れた高台から見た富塚山。
もともとはもっと綺麗な円錐形だったんですが、宅地開発によって削られてしまって。綺麗な形はだいぶ失われてしまいました。
地元では「おにぎり山」って呼ばれるくらい綺麗な形をしていたんですけどね。印象に残っている景色だったので、とても残念に思っています。
ブナ科の常緑樹がうっそうと茂っています。
写真を撮っている場所は開発されたマンションがある場所なんですが、このあたり一帯は藪という言葉がぴったりの場所でした。自分の背丈以上もあるアシやススキが生い茂っていたり、常緑樹が生い茂っていたりしていた場所です。人が踏み入ることもできないような場所だったんですよねー。
実は今でも富塚山の中腹には岩窟があったりします。もちろん入ることはできませんが・・・
ここが旧白髭神社が祀られていた場所なのかなって思います。
■ 写真
一段も二段も高くなっている場所に造られている白髭神社。
たぶんここよりも海側は、かつては海岸だったんだと思います。長い年月によって砂が堆積した場所なんだと思います。
高い石垣が特徴的です。現在の石垣ができる前はどんな石垣だったんだろう。
いつの間にか白髭神社って彫られている石塔が建っていました。以前はなかったような気がします。
そういえば、いつの間にか脇に坂道の参道も造られていたし。横須賀市は高齢社会になっているのでバリアフリーを意識したのかもしれませんね。
境内を囲んでいる石製の柵も新しくなっているような気がします。
石製の鳥居に「白髭神社」と書かれた石製の扁額が飾られています。
奉納したのは誰なのかとか、いつなのかと、調べた方が良かったかな?たぶん裏側に刻まれていると思うんだけど、あんまり気にしなかったなー。
神社の規模にしては大きくて立派な扁額がありました。
ココの神社って普段は誰もいない無住の神社だし、正面から見るとそれほど立派には見えないんだけど・・・
建物を横から見ると、実は意外と立派な造りをしているんですよー。重厚感があるし、詳しいことまではわからないけど良さそうな材を使っているように見えるし、細かい部分までしっかり作り込まれているような、そんな気がします。
拝殿を守っている狛犬。階段の参道を登りきった場所にいます。
白髭神社の見どころは狛犬かなーなんて思っています。とても立派な狛犬が2対も置かれています。
神社の造りといい、狛犬といい、わりとお金をかけて造られたんじゃないかなって感じています。半農半漁の寒村だったと言われていますが、漁師は意外と生活は安定していたのかもしれないですね。
下ノ里若者中によって奉納されたのが1856年(安政3年)2月。1853年に黒船来航があって、1855年に安政江戸地震とかあって、このあたりでもわりと激動の時期に奉納されました。狛犬を彫った石工は佐嶋村の伊右エ門です。
佐島の伊右衛門って、狛犬にはちょくちょく見かける石工です。三浦半島には庚申塔がとても多いので、誰が彫ったのか調べてみようかなとも思っています。
合祀されている稲荷神社。
大きくはないけど、ちゃんと鳥居やら石垣やらがあります。境内の段差をうまく活用して造られています。
こちらが稲荷神社前にいる狛犬。立派ですよね~。
狛犬に関しては、本格的に調べているウェブサイトがあったと思います。僕なんかじゃなくて、もっとちゃんとした人が調べているサイトを見ると、参考になることがたくさん書かれていると思います(^^)
こちらは新しい狛犬。新しいものは価値がないってわけじゃないんだけど、まだ威厳が足りないですよね。あと100歳くらいは年を重ねてくれないとね。
そのころには私はいないと思いますが(^^;)
自分が死んだ後もウェブサイトは残って欲しいなって思っているんだけど、それってやっぱり難しいのかなぁ~。
2004年(平成16年)3月、京浜産業株式会社と白髭神社総代一同によって奉納された狛犬です。京浜産業は船舶・鉄道車両・トレーラーなどの大きな部品を製造する会社みたいです。白髭神社との繋がりは不明です。
白髭神社には手水鉢が2コありました。
きっとどこかの小さな社から持ってきたものだとは思います。
せめて、こういったものの年代とか調べた方がいいのかなーって思うんだけど、学者じゃないからそこまでやらなくてもいいよなって思ってしまって、調べてないんだよね。
なんだか大変そうだし。
戦前、アワビ漁の潜水夫が、『大島出し』と呼ばれる暗礁で発見したものです。この暗礁の近くには、大きな伊豆石がたくさん沈んでいるといわれているので、江戸時代に石積船が遭難したものと考えられます。
江戸(東京)では大きな石はほとんどなかったため、伊豆から石を運んでいました。横須賀造船所も伊豆石で造られています。
このように、野比近辺の海域では船の遭難が多かったため、白髭神社が建てられたとも考えられます。海図があれば大島出しの場所も特定できるかもね。
自然石で造られた在郷軍人の碑です。
めずらしいんじゃないかなって思います。それに、こういった石碑ってとても大型になる傾向がありますが、こちらは小型だし。物干し台みたいな石が2コ置かれています。
奉納って書かれてある石、普通は下に置かれるものだと思うんだけど。サイズが合わなくて上に置いたのかな(^^;)
なんかよくわかんない石。
色々考えられるとは思うんだけど・・・
もともとは表面に何かが彫られていたんだけど風化してしまったとか。慰霊碑とか菩薩像とか。
あるいはこれが本当のご神体だったとか。
漁師の網に引っかかって引き揚げたっていうことはないと思うんだけど。だって、重すぎて引き揚げられない気がします。
■ 初詣
普段は無住なので扉も閉まっていますが、お正月の時期だけ開放しています。
この時期だけはお守りも購入することができます。朱印を書いてもらおうと思ったんですが、書ける人がいないので、朱印の書かれた紙を渡されるタイプなのでもらいませんでした。朱印帳に直接書いて欲しいので(^^;)
普段は参拝者もほとんどいない神社ですが、正月はかなりの参拝客が訪れます。階段で行列ができるほどです。
三浦半島の神社って普段はどこも同じですが、参拝客はいないですね。観光地ってわけでもないし。けど、正月には混雑するので、意外と信仰されているんだなって思います。
■ 祭礼
野比で開かれる白髭神社の祭礼。
毎年、7月15日前後の土日に行われます。久里浜ペリー祭とほぼ同時期に行われています。
お神輿の写真です。ちょうど休憩中だったみたいです。
野比にはたくさんの町内会があるので、たくさんのお神輿や山車が街中を練り歩きます。けど、地区によってはやってないところもあるみたい。三浦半島全体にいえることではありますが、古くから住んでいる人って新しく越してきてくれた人を受け入れようとしない気質があるみたいで。
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