日蓮宗の寺院で山号は歓喜山、寺号は実相寺といいます。古い漢字を使って實相寺と書くこともあります。
カインズ三浦店の奥の方にある日蓮宗の寺院。
アクセスは京急バスの宮田バス停から徒歩8分から10分くらいでしょうか。車の場合、境内のすぐ近くに駐車場があります。
周辺は賑やかな場所ではないので、静かでのどかな雰囲気があります。埋め立て後、開発を行わずにそのままになっており現在は荒れ地となっている土地が多くなっています。西武系列が開発を行う予定だったようですが、頓挫してしまい長い年月が経過しています。
子供を対象に寺小屋が行われたり、大人には寺コンが行われたりもします。
すぐ近くに延寿寺があります。
由緒
お寺の歴史
日蓮宗の寺院で山号は歓喜山、寺号は実相寺といいます。
開山は日胤上人です。鎌倉時代の日蓮宗の僧侶で千葉胤貞の猶子で、父は大田茂明で、弟に日貞がいる日胤とは同一人物ではないようです。開山は康正元年(1455年)になるようです。
古い棟木に第七代日禹聖人が本堂を造営したことが書き残されています。
1599年(慶長4年)、実相寺でもっとも古い過去帳が存在します。明暦(1655年~1658年)・寛文(1661年~1673年)年間に本堂を造営しています。僧侶の日能・日習が若宮権現を修造しています。
江戸時代末期、日雄・日言・日東・日義といった僧侶が活躍し、景勝の島「波島」に七面天女を祀り、近隣住民のほか、江戸の町人・文化人の信仰も集めていました。+
明治時代になり、村役場が置かれました。寺小屋教育にも力を注ぎ、下宮田学舎→下宮田学校→成章学校→開進学校→初声尋常小学校と呼称が変遷し、現在の初声小学校の基礎となりました。
七面天女の歴史
本寺は歓喜山実相寺といい、日蓮宗で開山は日胤上人です。
寺内には七面天女が祀られております。この七面天女は、徳川八代将軍徳川吉宗(1716年~1745年)の母堂順正院様の祈願に霊験をあらわしたということで、大切に祀られていましたが、のちに藤枝若狭守に遣わされ、さらに東京谷中の日蓮宗宗林寺に納められました。
この宗林寺の僧、日巡が宮田在住の猪熊安清と歌道の友としてじっこんの間柄で、一日宮田湾の風光に接し、美しい波島に遊んだ時、この島に七面天女を安置することがふさわしいと考え、猪熊安清の許しを得て、1715年(正徳5年)3月9日、島に一宇を建て、勧請したと伝えられています。
また言い伝えによると、昔、時化のとき、この波島に大蛇が流れ着き、この大蛇を見た人は病気になったとも言われたが、七面天女勧請以来、病気や災難除けのために七面天女に祈願して幸福を得たと伝えられ、開運七面天女と尊称されております。
七面様の縁日は毎月19日で、近郷からのお参りでずいぶん賑わったということです。波島がこの実相寺の寺領だったので、大正年間(1912年~1926年)に寺内に移し祀られました。
写真
カインズへの買い物ついでに訪れてみた実相寺。
実相寺は正式には實相寺って表記するのかもしれません。實(実)と寶(宝)ってとても良く似ていていつも間違えてしまいます。
不運にも何か作業中だったようで、駐車場には業者さんの車が停まっていました。平日に訪れることが多いためか、私自身が持ってない男なのかわかりませんが、業者の車が停まっているっていう確率がとても高いです。
日蓮宗のお題目が書かれた石塔と一緒に本堂の写真を撮影してみました。
これでもいちよ、構図とか考えて写真を撮っています。写真を撮るのって面白いですよね、たった1枚の写真、自分の目で見ただけの光景なんですが、構図によって受ける印象が全然違ってきます。
わりと新しめの地蔵です。
歴史は感じさせませんが、新しい地蔵って可愛くて馴染みやすいですよね。ついつい写真を撮ってしまいます。ホウキを持っているところもいいですね。
和風なお庭に必需品といえる石灯籠。なくてはならない存在ですね。
実相寺では寺コンもやっているので、灯籠ナイトと称して日が暮れたら灯籠に火を灯すと幻想的な雰囲気がかもし出されるのではないだろうか・・・
現在の本堂はいつ頃建てられたんだろう・・・
『三浦こども風土記』とか『初声の歴史探訪記(三浦の歴史シリーズ1)』とか持っていれば記載されているかもしれないんだけど、市役所に行ったときにはすでに売り切れになっていて買えませんでした( ;∀;)
どこかの古書店に売ってないかなぁ~。
扁額には山号である歓喜山って書かれてありました。
誰の筆によるものなのかはわかりません。三浦こども風土記や三浦の歴史シリーズがあればもしかしたら・・・(^^;)
真の郷土史研究家だったらお寺の人に聞くんだけどね、僕はインチキ郷土史研究家だからさ。
墓地と鐘楼と本堂。
なーんとなく境内の雰囲気が伝わるかなーなんて思って写真を撮ってみました。今までこういった写真って撮ってこなかったんですよね。図鑑や百科事典の写真みたいな面白みがない写真ばかりで。
鐘楼と梵鐘。
記念にひと突きしたいんだけど、時を知らせる鐘だと思うので断腸の思いで我慢しました。たぶんなんですが、時の鐘を鳴らしているのはこちらの寺院ではないかなと思います。
たくさんの仏さんがいた。
これらはすべて無縁仏だと思われます。墓石は江戸時代後期以降のものでしょうか。新しくても明治時代初期までかな。たぶんね。
地域に根差している寺院でも、長い年月が経過すると無縁になってしまうお墓ってたくさんあるんだなって思います。特に戦後は核家族化も進んで家族の人数が減少したし、転勤等によって遠くに転居してしまうことも多くなったから、無縁仏は増えてきているんだろうなって思います。
右側の古い石塔の世話人が・・・
松輪村
杉野源三郎、杉野八左衛門、杉野市右衛門、杉野勘十郎
三戸村
石田七郎左衛門、石田忠右衛門
長井村
小沢■右衛門、■藤三郎兵衛
当村
石渡戸清兵衛、石橋安左衛門、石橋利右衛門、石渡治兵衛、猪熊啓助、金子徳蔵、猪熊喜之助、田中吉左衛門、西崎新次郎
左側の新しい石塔の世話人が・・・
総代
川名房、石田長吉、石橋勝正、石橋勇、松原松次
世話人
松輪 杉野利夫、杉野浅吉、杉野庄太郎
長井 斉藤竹蔵、松田義雄
三戸 石田鑅、石橋政太郎
入原下 石渡進、石橋千代
神田 石渡入蔵、三須田常治
谷戸 原田益吉、石井金蔵
里 原田春吉、山田重造
黒崎 西崎秀一
石工 上田茂
奉納した人の苗字を調べれば、地域に多い苗字がわかるかなと思って調べるようにしてみました。
七面天女像は本堂内に安置されているようです。ちゃんとした仏像のようです。
こちらの写真はただの石塔です。
かつて波島に七面天女像が祀られていました。その波島は埋め立て事業によって現在は陸続きとなっています。開発から取り残されている荒れ地の中、こんもりと樹木が茂っている場所が波島になります。Googleマップで見るのがわかりやすいかなと思います。
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