三浦市初声町和田の和田城址

初声町和田

三浦一族ゆかりの地。
鎌倉幕府で初代侍所別当となった和田義盛。彼の居城だったと言われています。
戦国時代のような天守閣を持つ城ではなく、ちょっとした防御機構を備えた館。この辺りは現在でも畑が多くありますが、当時は三浦一族を支えた穀倉地帯となっていました。その地に館を構えたわけです。
アクセス方法は京急バスの和田バス停下車、徒歩10分くらいかな。最寄りの鉄道駅はありません。駐車場はありませんが車が便利かな。車の交通量は少ないし、長時間停車して見学するほどの史跡でもないし。
以前からグーグルマップには和田城址が2ヶ所あるので、訪れるときは気を付けてくださいね(^^;)。三浦市が設置する説明看板の文章はわかりづらいですねぇ~。

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和田城址の歴史

和田城址の説明看板から

三浦一族の歴史コース 和田城址
和田小太郎義盛は16歳の秋、父の死を境に鎌倉杉本城から和田に移り、このあたりは義盛の居館があったところです。
義盛が和田の里に館をおいた。その頃すでに和田は三浦半島有数の穀倉地帯であったために、このあたりが領民を守り、水田を管理するにも地の利を占めていたともありました。
義盛は和田を終生の根拠地と定め合戦にのぞんでこの地から多くの兵士が出陣し、倉糧が戦陣に送られるなど重要な役割を果たしていたところです。
現在、和田館はその跡をとどめていないが、この館を囲むようにして木戸脇、唐池(空池)、出口、赤羽根、矢作などの地名が残っていて往時を偲ぶことができます。
また、和田館には木曽義仲の妾巴御前が義盛に預けられここで余生を送ったといわれます。
三浦市

和田義盛

1147年(久安3年)~1213年(建保1年)5月3日
三浦一族の一人で、鎌倉幕府の侍所で初代別当となりました。杉本義宗の子です。
相模国三浦郡和田に住んでおり、源頼朝の挙兵に応じて叔父三浦義澄のもとで奮戦しました。1180年(治承4年)11月に設置された侍所の別当となって御家人武士の統制にあたりました。
1184年(寿永3年・元暦1年)に平氏追討の源範頼軍に属して中国地方に向い、1189年(文治5年)には源頼朝の奥州征伐に従って功を立てました。1199年(正治1年)、源頼朝が没して源頼家が跡を継ぐと、諸元老有力御家人とともに合議政治に参画。1203年(建仁3年)、源実朝の擁立を画する北条時政の追討を源頼家に命じられましたが、北条時政に内応して源頼家を引退に追い込みました。
甥の和田胤長の陰謀に端を発して挙兵しましたが、三浦義村の裏切りにあって敗れ一族ともに全滅しました。

鎌倉市由比ガ浜の和田塚
江ノ電の和田塚駅のすぐそば、石垣に囲まれで一段高くなった場所に20基近くの石塔がならんでいます。この地が和田一族の使者を葬ったと伝えられる和田塚です。 かつては無常堂塚と呼ばれていました。 アクセスは江ノ電和田塚駅下車、徒歩すぐです。で...

写真

和田城址

和田城址(2019年6月19日撮影)

久しぶりに訪れた和田城址。
交通の便が悪いし、近くに用事のある場所もないし、駐車スペースもないので、訪れる機会に恵まれませんでした。だけどずっと気になっていました。
久々に訪れてみると、数年前から何も変わっていなかったので安心しました。

和田城址

和田城址(2006年10月16日撮影)

10年以上前に訪れた時の和田城址。
何も変わっていないなーって思ったんですが、変わった部分もありました。植えられている植物が少し変わっていました。
けど、変わったところはそれくらいかな。
この辺りが和田義盛の根城となっており、この辺りのどこかに館を構えていたと伝えられています。

和田城址

和田城址(2019年6月19日撮影)

道路沿いに建っている石碑。
和田義盛に関しては、もうひとつ石碑があります。和田義盛旧里の碑だったかな。
もうひとつの石碑は和田バス停の近くにある神社みたいな場所にあります。この場所にも行きたいんですが、駐車スペースがなくて。白旗神社にも行きたいし、気合を入れて歩いて史跡巡りをするしかないですね。

和田城址

和田城址(2019年6月19日撮影)

電柱が邪魔で良い写真が撮れないんですよー。
この史跡って三浦市の土地ではなく私有地なのかもしれないですね。

説明看板

説明看板(2019年6月19日撮影)

三浦市が設置する説明看板って、文章の意味が伝わりづらいんですよねー。ちゃんと公務員試験に合格した人が文章を考えて設置するはずなんですが・・・。公務員試験には国語の科目もあると思うんだけどなー。
でも、説明看板が設置されていない場所も多いので、あるだけでも良かったと考えるべきかな。

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