江ノ電の和田塚駅のすぐそば、石垣に囲まれで一段高くなった場所に20基近くの石塔がならんでいます。この地が和田一族の使者を葬ったと伝えられる和田塚です。
かつては無常堂塚と呼ばれていました。
アクセスは江ノ電和田塚駅下車、徒歩すぐです。でもJR鎌倉駅からなら徒歩15分くらい。1駅だけだったら江ノ電に乗るのはもったいないので鎌倉駅から歩くのがいいと思います。車だったら駐車スペースはないので、近くのコインパーキング利用になります。
和田塚の歴史
明治中期、新しい道路を作る工事の際、塚の一部から埴輪や土器片、多数の人骨が掘り出されました。このとき、和田合戦で敗れた和田義盛一族のものだと推定され「和田塚」と名付けられました。
しかし、実際には向原古墳群(むかいばらこふんぐん)のひとつとされ、和田一族とは無関係だと考えられています。近くにあった采女塚(うねめづか)がなくなってしまったので、鎌倉に残る唯一の高塚式古墳の面影を残した古墳になります。
和田の乱
和田義盛は三浦大介義明の孫にあたり、源頼朝の伊豆挙兵以来、側近として仕え、のちに侍所の別当にまで上り詰めました。源頼朝の死後、執権として勢力を伸ばしてきた北条義時のために一族共に滅ぼされてしまいました。
1213年(建保元年)、北条氏を倒そうとする企てが露見し、和田義盛の子和田義直・和田義重、甥の和田胤長らが捉えられてしまいました。
上総にいた和田義盛は鎌倉に来て、将軍源実朝に許しを請います。子の和田義直・和田義重は許されましたが、和田胤長は許されず陸奥に配流とされます。これに怒った和田義盛は一族を率いて北条義時邸を攻撃し、若宮大路を中心に鎌倉市中が戦乱に巻き込まれました。これを和田合戦(和田義盛の乱)と言います。
戦いは2日間に及び、和田一族は滅亡しました。この事件は和田氏から実権を奪おうとした北条氏の謀略だとされています。
写真
以前から気になっていた史跡のひとつ。といっても、以前にも訪れたことがあるんですけどね。
私の地元の三浦一族ゆかりの史跡ですからねー。
観光地を紹介する本などによればマツが植えられているって書いてあるけど、マツは生えてませんでした(^^;)。ケヤキだったかな?忘れちゃった。けど、前に訪れた時に比べると綺麗に整備されている気がします。
和田塚にはとてもたくさんの石塔が建てられています。
たくさんありすぎて写真を撮ったのは一部だけ。全部撮っても掲載できないし。
和田一族戦没地って刻まれた石塔です。
ですが、実際には和田義盛の乱とは関係がないと考えられています。
ただ、鎌倉という市街地で合戦で亡くなった人々を野ざらしにしておいたら衛生面で良くないので、この地に移動してきてめとめて葬ったことは十分にあり得ると思います。合戦でなくても疫病や災害などで一度にたくさんの人が亡くなった場合とか。
和田一族之碑と刻まれた石碑。
倒れて割れちゃったのかな、補修の跡がありますね。
戦没者の慰霊碑です。太平洋戦争の物だと思います。
お寺や神社、公園など、いろんな場所に建てられています。それほど身近な戦争だったってことですよね。今では信じられない出来事だけど、現実なんだよね。
関東大震災の供養碑。
関東大震災の震源域に近い鎌倉では被害も大きかったのではないかなと思います。戦争と震災の慰霊碑って、本当に多いですね。
無数の五輪塔。ただ積まれただけの五輪塔だと思うので、建てられた当時と組み合わせは違っているんじゃないかな。
五輪塔以外にも石仏などもありました。
心霊スポットのひとつとして紹介されることもある和田塚。地面を掘ると人骨が出てくるなどと、まことしやかに語られて・・・
本当かなーなんて思いながら捜し歩いていたら、掘ったりすることもなくそれっぽいものを発見しました。たぶん人骨だと思います。
けど、人骨じゃないといいなーっていう気持ちもあります・・・
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