白髭神社のすぐ隣に建っている寺院。このあたりは旧字名では松葉っていいます。
浄土真宗の寺院で、大谷派東本願寺の末寺になります。
最寄り駅のYRP野比駅からは徒歩10分くらいです。参拝者用の駐車場としては、境内に3台分くらいの駐車スペースがあります。あと、最光寺入り口に建っている法龍山最光寺って刻まれた石塔の脇に、3台分の駐車スペースがあります。
野比地区はここの海岸付近に神社と寺院が1か所ずつ、最蔵寺周辺に寺院が3か所がかたまって建っています。何もないエリアは湿地帯などで人が住んでいなかった場所なのかも。
■ 由緒
資料から調べた由緒
山号は法龍山、院号は宝積院、寺号は最光寺といいます。浄土真宗大谷派で、東本願寺の末寺です。
本尊は阿弥陀如来です。新編相模国風土記稿によれば、長2尺5分、恵心(けいしん)の作とあります。三浦大介義明の守本尊だと言われています。また、薬師像は鎌倉将軍の源頼経に寄贈されたものだと言われています。
開基は行基と伝えられています。
729年(天平元年)、高座郡の菱沼村(現在の茅ヶ崎市菱沼、現在は八王子神社が1軒あるのみで寺院はありません)に天台宗のお寺として建てられました。その後、円達によって再興されました。
さらにその後、円光によって再び再興され、親鸞の弟子になったことから浄土真宗に改めました。そして、鎌倉松葉ガ谷(鎌倉市大町の名越のあたり)に移転しました。
またまたその後、衣笠村に移転しています。
了誓の時代、野比の深山に移転しました。
そしてついに、1540年(天文9年)、12世の頼玄の時代に現在地に移りました。
以前は江戸時代に建てられた本堂がありましたが、1940年(昭和15年)11月、火災に遭って焼失してしまいました。現在は戦後に建てられた鉄筋コンクリート製の本堂になっています。
境内の石碑より
法龍山宝積院ト号ス
本尊ハ阿弥陀如来ナリ
当山は天平元年(729年)行基ニヨリ高座郡菱沼村ニ草創ノ古刹ニシテ後僧栄達再興ス。栄達ハ六孫王経基ノ」長男武蔵守左馬助満仲ノ四男ニシテ鉄丸ト称ス。京都横川恵信院ニ学ビ源智ト号ス。老後栄達ト改メ寛政六年(1794年)夏関東ニ下リ前記行基ノ遺蹟ヲ再興ス。
永長年間(1097年)建立成リシ七堂ヲ七十三年経シ嘉応年中(1169年~1171年)焼失ス。当寺ハ天台宗ナリシヲ後年親鸞聖人ノ教ヲ受ケシ常念坊其ノ跡ヲ開キ念仏ヲ広メ、後円光之ヲ引キツギ嘉禄年中(1225年頃)、再興ス。
当坊中興開基円光トハ藤原ノ姓中臣大職官鎌足十五代ノ後裔讃岐国菱沼ノ城主伊豆守時国ガ俗名ニテ建永2年(1205年)法然上人讃岐流罪ノ際、彼地塩尻ノ城主駿河守時遠入道西仁ガ館ニテ師弟ノ関係を結ビ円光ト法名ヲ授ケラル。法然没後親鸞ニ従フ。
寛喜年中(1230年頃)菱沼ノ坊ヲ鎌倉名越松葉ヶ谷ニ移ス。宝治年中(1247年頃)炎上。正嘉年中(1257年)円光衣笠ニ移リ再建、建治2年7月8日(1276年)円光衣笠ニテ終焉、明誓第二世住職トナル。
第二世明誓トハ三浦大介四代ノ孫三浦次郎義忠ナリ。弘安年中(1280年頃)明誓当坊ヲ衣笠ヨリ野比千田崎白根ノ地ニ移ス。元文9年(1540年)漁民ノ帰依ヲ得テ富塚尾ニ移ル。現在地裏手高台ナリ。
元禄13年(1700年)東派帰参。
文化7年11月8日(1810年)落雷ノ為焼失。
文化10年再建、昭和15年11月亦も火災ニ遭ヒ全焼。現在の本堂ハ昭和42年再建。
客殿は昭和50年落成ス。
合唱
昭和60年8月吉日釋
第三十二世住職 釋円啓
寄贈 上田石材店
■ 写真
最光寺への参道の入り口にある石柱。
真宗大谷派法龍山最光寺って彫られています。すぐわきには、僧侶によるありがたい文言が書かれてあります。
ココのすぐわきに3台分の参拝者用駐車スペースがあります。後ろ側は月極駐車場になっているみたい。
ここよりも海側は墓地になっています。
こちらの馬頭観音の石塔の裏側には説明が書かれていたので、そちらを書き写しておきます。古くからあった馬頭観音は、自然石で造られて朽ち果てかけているものの方みたいです。
この馬頭観音は東、稲畑の浜へ降りる道端に建っていた。
建立年代は不明で、昭和13年秋ごろから始められた海軍病院建設用地として付近の住民14軒と共に他に移転を命ぜられた。
観音は石井幸蔵氏の計らいで松葉に移り戦中戦後を通じ季節の花など供えられていたが、その後、忘れられ放置されていたものを最光寺や有志の方により新しく造られた観音と昔から伝わる観音を2体、ここにお祀り申し上げた。
立派な本堂ですね。ドシっとしています。ちょっと立派すぎちゃうけど。
隣に繋がって建っている庫裏が寺院っぽい造りになっているので、以前の本堂が現在は庫裏になっている隣に建っている建物なのかなーなんて思いました。真偽のほどはわかりませんが。
立派な本堂ですね。鉄筋コンクリート造なんですが、木造っぽく造られています。
どこの寺院もそうだとは思うのですが、観光地ではないからか参拝客を見かけることはほとんどありません。神社には参拝者が訪れているのを見かけることはあるんだけど。
人の気配を感じるのは墓参の時期くらいですかね。
木造っぽく造られてい入るけど、やっぱり鉄筋コンクリート造なので無機質な雰囲気がありますね。神社仏閣には木の温かみが欲しいなって感じます。
法龍山の扁額が目立ちます。扁額も立派なものですね。
屋根がとても大きいんですよー。
正面から見てもあまりわからないんですが、側面や背後から見ると、とても大きいことがわかります。
なんて書いてあるのか良く読めなかったんだけど・・・
ネットでいろいろと検索していたら偶然に発見、若山牧水の歌碑でした。若山牧水といえば長沢に住んでいたこともあるので、こちらの寺院にも訪れたことがあるのかもしれません。
1985年(昭和60年)12月に建立されました。
酒出でつ 庭いちめんの 白梅に 夕日こもれる をりからなれや
友の僧 いまだ若けれ しみじみと 梅の老木 をいたはるあはれ
野比は漁師町なんだなって再確認する魚介供養塔。
さまざまな供養塔が存在しますが、魚介供養塔はここでしか見たことがありません。けど、ネットで検索してみるとそれほど多くはありませんが存在するみたいです。
やっぱり漁業が盛んな場所にあるみたい。
食用とした魚類や貝類を供養するなんて、日本的な思想だなって思います。
無数にある無縁仏たち。
すごい数がありますね。それだけ歴史の長い寺院だっていうことでしょうか。江戸時代の頃から多くの檀家を抱えていたのかもしれません。
役目を終えて石垣として使われている墓石たち。
最光寺の見どころは石造物が多いことではないでしょうか。特に墓石はかつてこの地区にどういった人が住んでいたのかがわかるので、貴重な資料でもありますね。
最近は無縁仏で造られた階段などを見かける機会がグッと減ったんですが、墓石は廃棄物業者に引き取ってもらっているのかもしれないですね。なんだか寂しい気がします。いつまでも寺院に残って欲しいなって思います。
こちらの石垣墓石のようです。以前は階段にも使われていたような記憶があります。
最光寺脇の細い道、現在はコンクリートで舗装されていますが。以前は完全な獣道でした。富塚山のふもとを通る小道で、海側から山側へと通り抜けるのに便利な抜け道になっていました。途中に地蔵があったような気がします。
マンション開発が行われ、コンクリートで舗装された道になりました。
■ 植物
植物図鑑の更新が止まってしまいましたが・・・
植物が好きなのは相変わらずで。更新は止まってしまっても、スマホを使って写真を撮ったりはしていました。
アジサイと石仏を同時に撮ろうと思ったんですが、側溝の金網が移り込んでしまいました。金網がなければ良かったんだけどなー。
愛用しているデジカメは今でもコンパクトデジカメだけどね。ミラーレス一眼が欲しいです。
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