三笠公園内に展示されている戦艦「三笠」。三笠公園内に展示されており、艦内は博物館となっています。拝観料は一般で600円です。
三笠は世界三大記念艦に数えられています。英国海軍の帆走戦列艦「ヴィクトリー」、アメリカ海軍の帆走フリゲート艦「コンスティチューション」、日本海軍の戦艦「三笠」になります。
ヴィクトリーはナポレオン戦争で活躍した帆船です。大砲が100門も積まれていました。コンスティチューションは1797年に建造され、現在でも現役です。世界最古の現役戦闘艦といえます。
三笠は横須賀市内では代表的な観光名所です。もともとはあまり観光客が訪れることも少ない場所でしが、艦これの影響や、軍港巡り等の横須賀市の観光地化によって、訪れる人が増えてきました。
戦艦三笠の歴史
自分で調べた歴史
1902年(明治35年)、イギリスのヴィツカース造船所で建造された1万5140トンのとうじでは世界トップクラスの戦艦でした。日露戦争では連合艦隊の旗艦として活躍した戦艦です。
1905年(明治38年)5月27日~5月28日の日本海海戦では、全軍を指揮して大勝利を収め、司令長官東郷平八郎の名とともに世界的に有名になりました。この海戦では、ロシア軍艦38隻のうち、逃れることができたのはわずか3隻、その他はことごとく撃沈・捕獲・武装解除され、捕虜6000人あまりを数えました。日本側が失ったのは、小艦艇3隻のみでした。
世界の海戦史上では、他に例を見ないほどの圧勝でした。
1925年(大正14年)1月、三笠の永久保存が決定され、白浜海岸に固定されることになりました。1926年(大正15年)11月12日、工事が完成し、後甲板で記念式典が行われました。
第二次大戦後、アメリカ軍に接収されダンスホールになるなど荒廃しておりましたが、1961年(昭和36年)5月、復元が完成しました。
現在、マストにZ旗を掲げ、艦内は海戦や海軍などの資料などが展示されています。
案内看板から
記念艦三笠の由来
三笠は1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争において、東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる偉功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。
日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自信を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として、三笠は1926年(大正15年)以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。
要目
排水量……15,140トン
全長……122m
幅……23m
軸馬力……15,000HP
速力……18ノット
砲……30cm×4門、15cm×14門、8cm×20門
発射管……45cm×4門
戦艦三笠の写真
外観
現在では実際に見ることはほとんどない戦闘艦です。といっても、明治時代に建造された古い戦闘艦ですが。
日本で建造されたと思っている人が大半なんですが、実はイギリスで造られた艦です。まだ当時の日本ではここまでの艦を造る技術力はありませんでした。世界の造船技術に追い付こうと必死になっていた時期かな。
三笠のデザインってカッコいいと思いますか?カッコ悪いと思いますか?
観光客が話している声に耳を傾けるとほとんどの人がカッコいいっていうんだけど・・・
私の個人的な感想ではありますが、なんかずんぐりしててあんまりカッコ良くないような・・・。野暮ったい感じがします。もう少しシュっとしてたらカッコいいんだけどねー。イギリス製だからしょうがないのかも。
艦の側面から大小さまざまな砲が飛び出ています。
こういった武装がド級戦艦とは違うところかな。建造当寺は最新鋭の戦闘艦でしたが、1906年に進水したドレッドノートの登場によって、時代遅れになってしまいます。
戦艦三笠でカッコいいなーって思うのが艦尾のバルコニー。ここっていいですよね!!
またまた工事中だった戦艦三笠。
いつもの三笠は見慣れているんだけど、この日の三笠の姿は始めていたのですごいカッコ良かったです!!
三笠の前部主砲です。ここは記念写真スポットのひとつとなっています。
40口径30cm連装砲塔です。ちなみにホワイトベースの主砲は52cm連装砲で、射程約70km、弾頭重量2tであります。さすがはペガサス級です!!
ちなみに三笠の砲塔は復元したものです。指でコンコンって叩くと音が響くので、薄い鉄板が使われているのがわかると思います(^^;)
以下、説明看板から。
40口径30cm連装砲塔
戦艦の象徴である主砲です。最大射程約10km、砲弾重量約400kg、操作人員40名で、35cmの装甲に囲まれ、自重50トン、動力には水圧が用いられていました。天蓋の突出物は砲台長及び射手の観測窓で、後方の砲台長のものは将校塔と呼ばれ、黄海海戦(明治37年8月10日)の激戦時に伏見宮博恭王殿下がご奮戦された場所です。当時の砲戦距離は、照準器の関係上6km程度がよいとされ、命中率は10%と言われていましたが、精度をさらに高めようと猛訓練に励んだわけです。
三笠主砲砲弾
三笠の主砲30cm砲弾は重量400kg、最大射程10kmでした。砲弾には爆発力の激しい大量の下瀬火薬が装填され、起爆装置には安全でしかも感度の鋭敏な伊集院信管が弾底に着けられていました。
艦外の展示物
この大砲は安政元年(1854年)11月4日伊豆下田港において大震災のために座礁破損した露国艦隊軍艦ディアナ号の備砲と推定されます。
米海軍横須賀基地に保存されていたのを此の度、同基地司令官ハウエル海軍大佐から寄贈されたものです。
この姉妹と思われる大砲が遊就館(靖国神社)に保存されています。
昭和62年5月22日
海上自衛隊横須賀地方総監部
It is assumed from various historical data that the cannon was onboard Warship DEANA of the Russian Fleet which was damaged and grounded during the great earthquake of 4 November in the first year of ANSE(1854) at IZU SHIMODA Harbor. It has been preserved in the Yokosuka U.S. Naval Base and presented by Captain S. H. Howell U.S. Navy, Commander Fleet Activities, Yokosuka. A similar cannon is preserveo at the YUSHU-KAN(Yasukuni Shrine).
46cm三連装砲
呉海軍工廠砲熕部が極秘開発した世界最大最強の戦艦主砲です。敵戦艦に対してアウトレンジが可能な最大射程40kmを超える最新鋭のこの巨砲は、機密保持のため公式には16インチ砲とされていました。「三式弾」を用いた強力な対空射撃も可能です。
三笠艦内
フローリングの部屋を紹介する写真ではありませんよ。
由緒正しきチーク材を使った甲板です。建造当時のチーク材を用いた甲板です。船舶の甲板や家具に用いられる材といえばチークです。東南アジアに自生する落葉高木ですが、成長が遅く、とても高価です。
ここは蝋人形の館?
私と同じ髪型をした蝋人形が・・・
以下、説明看板から。
無線通信室には三六式無線電信機が装備されていました。明治38年(1905年)5月27日、五島列島西方において哨戒中の「信濃丸」から発信された「敵艦隊見ゆ」の第一報は、尾崎湾(対馬)にいた第三艦隊旗艦「厳島」を経由してこの電信室で受信され、その後バルチック艦隊に接触した巡洋艦「和泉」からも敵艦隊の動静が刻々と送られてきました。東郷司令長官の「敵艦見ゆとの警報に接し・・・」の有名な連合艦隊出撃報告はこの電信室から発信されました。
とても大きな操舵輪。人力操舵用の舵輪だそうです。
できれば出番が訪れて欲しくない舵輪ですね。人力では大変です。
以下、説明看板から。
舵取機械が故障した時、後部の舵機室において人力により直接操舵するもので、艦橋のものよりずっと大きくなっています。
遠くから見ても「ここってトイレがあった場所なんじゃね?」みたいに思って近付いてみたら、やっぱりトイレの跡でした。汚れ具合がいかにもって感じですね。
たぶんだけど、当時のトイレは海への放流式かなー。
以下、説明看板から。
イギリスやアメリカ海軍の艦船の便所は、昔は艦首にありましたので、今でも「ヘッド(Head)」と呼びます。日本海軍では昔の言葉で「厠(かわや)」と呼び、掃除をする人を「厠番」と呼んでいました。
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