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このあたりは散策地区になります。野毛山動物園を挟んで反対側が、配水池地区になります。散策地区には、スダジイなどの常緑樹に覆われた緑豊かな公園となっています。
横浜の二大庭園と呼ばれていた原善三郎と、茂木惣兵衛の庭園に、旧水道給水場の敷地を加えて作られた公園です。関東大震災後に、横浜市の復興局が買収し、1925年(大正14年)5月、開園しました。 |
写真撮影:2007年06月01日 |
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ご存知でしょうか?中村汀女。名前が読めないと思うかもしれないけど、「なかむらていじょ」と読みます。とっても有名な女流俳人なんですが・・・
中村汀女は、1900年(明治33年)4月、熊本市に生まれました。本名は破魔子といいます。
1918年(大正7年)、18歳のころから句作を始め、翌年から高浜虚子の主宰する『ホトトギス』に俳句を送るようになりました。その後、結婚して上京したため、しばらく句作を中断していました。
1932年(昭和7年)、夫が横浜税関長になり転居し、32歳のころから再び句作を開始しました。夫が仙台に転勤になるまでの4年間、横浜に住んで数多くの俳句を残しました。
文化功労者
日本芸術院賞受賞者 |
中村汀女先生は明治三十三年熊本に生まれ、江津湖畔に育ち、高浜虚子に師事。
昭和二十二年俳誌「風花」を主宰、句集「紅白梅」ほか多数の著書あり。
昭和五年より西戸部税関官舎に住まわれ、良き時代の横浜をこよなく愛され幾多の名句を詠まれた。
ここにゆかりの句を戴き、風花湘南支部一同これを句碑として此処に残す。 |
昭和四十八年五月三十日 |
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写真撮影:2007年06月01日 |
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女流俳人中村汀女の句碑です。のびやかな中村汀女の筆跡の句が、大きな自然石に刻まれています。これは、『汀女句集』の中の、「波止場所見」にある句です。
押しも押されぬ女流俳人となった中村汀女は、高浜虚子の次女の星野立子と並び、現代女流俳人の草分け的存在となっていきました。何気ない日常生活の断片を描写しながら、新鮮で豊かな想いにあふれている、とてもすがすがしい俳句です。
汀女は、1947年(昭和22年)、『風花』を創刊し、主宰しています。代表的な句集には、『春雪』、『汀女句集』、『春暁』、『都鳥』、『汀女立子互選集』などがあります。
1989年(昭和64年)、88歳で亡くなりました。
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写真撮影:2007年06月01日 |
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やっぱり、単なる灯籠に見えますか?これでもちゃんと名前が付いているんですよ。しかも灯籠じゃないのです。
正式名称は、「公衆用聴取施設」と言います。通称はラジオ塔です。高さ3mで、昭和7年11月19日に建てられました。
ラジオの聴取契約者が100万人を超えた記念に、日本放送協会が全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められました。
昭和7年〜昭和8年に41ヶ所が完成し、その中に野毛山公園も選ばれて建塔されました。 |
写真撮影:2007年06月01日 |
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意外ですねー、かの有名な幕末の兵学者である佐久間象山に関連する石碑があるなんて。開国以来、ペリーの敬礼を受けた者は、佐久間象山をおいて、他にはいないとも言われていたほどの人物です。
一流の漢学者であり、思想家でもあります。短期間に西洋の学問をマスターし、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内らの俊才たちが続々と門下生となりました。
なんとか碑文が読めたので、書いておきます。
横浜開港の先覚者
佐久間象山の碑 |
安政元年一八五四年、米国の使節ペリーが来航のおり、松代藩軍議役として横浜村にいた佐久間象山先生は、当時の新思想家であり、また熱心な開国論者であった。
先生は日本が世界の先進国から取り残されることを憂え、幕府の要路に対してしばしば欧米諸国との通称交易の必要なことを献策した。
またその開港場として横浜が最適地であることを強く主張し幕府の決意を促して、国債港都横浜の今日の発展の諸を作った。
不幸にも先生はその後、京都に遊説中攘夷派刺客の凶刃のために木屋町三条で客死した。
時に元治元年一八六四年七月十一日のことであった。
本年はたまたま開国百年の記念すべき年に当たるので、われわれ有志達はかりその功績をたたえるためにここに顕彰の碑を建て、永く後世に伝えることとした。 |
昭和二十九年十月一日
佐久間象山顕彰会
横浜市長 平沼亮三書 |
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写真撮影:2007年06月01日 |
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水の流れる小川がある、その一番奥に石碑が建っています。
この草の中を掻き分けて行けば、石碑まで辿り着けるのですが、途中まで行って断念しました。だって、草ボウボウなんだもん(T_T)
何の石碑なのでしょうか? |
写真撮影:2007年06月01日 |
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野毛山動物園入り口付近に建っていた石碑です。
道路を挟んだ向こう側にあったので、敷地で言えば野毛山公園じゃないかもしれない・・・。しかも、石碑には何も文字が刻まれていません。
ってことは、この石碑の写真、裏側から撮影してるよね(^^ゞ。道路を渡って正面に回ればいいんだけど、意外と車の往来が激しくて渡るのが大変そうなので、やめておきました。 |
写真撮影:2007年06月01日 |
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ヘンリー・スペンサー・パーマー胸像 |
京急日ノ出町駅下車 徒歩7分
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名前が長いなぁー、ヘンリー・スペンサー・パーマー。
野毛山公園の配水池地区が、近代水道の発祥地です。
1887年(明治20年)、日本で最初の近代水道が横浜に完成しました。この野毛山浄水場から、市街に配水されました。その水道工事の設計者が、ヘンリー・スペンサー・パーマーです。
現在は浄水場ではなく、野毛山配水池となっています。 |
写真撮影:2007年06月01日 |
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横浜市とオリンピックと、どういう関係があるのか、良くわかりませんでした。でも、調べてみたら、東京オリンピックの一部競技が横浜市内で行われていました。
1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催されました。横浜市では、サッカ−、バレ−ボ−ル、バスケットボ−ル予選、3種目が三ツ沢競技場で行われました。
野毛山公園展望台の近くのオリンピック記念碑は、それを記念して1966年(昭和41年)10月に建てられました。彫刻家の堀野秀雄が製作した3種目のレリーフがはめ込まれています。 |
写真撮影:2007年06月01日 |
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野毛山公園からの景色 |
京急日ノ出町駅下車 徒歩7分
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展望台っていうの?見晴台っていうの?そこから見た景色です。
天気も良く、空気も澄んでいたので、みなとみらい21地区のビル群が綺麗に見えました。桜木町と野毛山公園は近いイメージがあったんですが、こうして見てみると、意外と遠いですねー。
高い鉄塔はなんだろう?携帯電話とかの電波塔にしては、アンテナっぽくないですよねー。消防やレスキューの訓練用の鉄塔かな?アトラクションか? |
写真撮影:2007年06月01日 |
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