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 三浦大介義明


生没年は1092年〜1180年が一般的
 三浦義明の生没年は、1092年(寛治6年)〜1180年(治承4年)とするのが定説です。これは、1180年(治承4年)に三浦義明が89歳で討ち死にしているので、そこから逆算したものです。
 『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』では、三浦義明は79歳で討ち死にしており、生没年は1102年(康和4年)〜1180年(治承4年)となります。
三浦平六庄司義継 三浦義明 杉本太郎義宗
三浦次郎義澄
中村荘司宗平の姉(不詳) 秩父権守重綱の娘(不詳) 大多和三郎義久
    多々良義春
    長井五郎義季
  津久井次郎義行 森戸重行
  芦名三郎為清 佐原十郎義連
  岡崎四郎義実 女(源義朝の妻)
  女(大友経家の妻) 女(畠山重能の妻)
      女(金田頼次の妻)

母親も妻も不詳です
三浦義明
三浦義明
 父親は、三浦平六庄司義継です。三浦義継は1159年(平治元年)2月21日に93歳で亡くなっています。
 三浦義明は父親・三浦義継が26歳のときに生まれたと計算できます。
 郷土史類には、母親は中村荘司宗平の姉で20歳のときに三浦義明が生まれたとありますが、詳細な根拠はわかっていません。
 三浦義明の妻は、畠山重忠の曽祖父に当たる秩父権守重綱の娘だといわれています。しかし、こちらも同様にはっきりとしていません。

生没年の根拠
源平盛衰記
源平盛衰記
 衣笠城合戦のとき、「義明十三己来、弓矢を取って今年七十九」歳と、三浦義明が自ら初陣を飾る場面が『源平盛衰記』に記載されています。1180年(治承4年)で79歳なので、13歳は1114年(永久2年)になります。
 郷土史によれば「三浦大介の年譜」の中に、1104年(長治元年)三浦義明13歳、父に従い武蔵一揆を平定すると書かれています。
 同じ13歳でも、『源平盛衰記』では1114年になり、「三浦大介の年譜」では1104年になり、10年の開きがあります。
 これは「三浦大介の年譜」が、『源平盛衰記』から記事を引用しながら、三浦義明の没年齢を『吾妻鏡』から引用したことによって生じた食い違いです。『源平盛衰記』では、三浦義明の13歳の初陣が、どこで誰と戦ったのかということは記載されていません。「三浦大介の年譜」では、13歳初陣に武蔵一揆という事件名を創作し、1104年に位置づけたものと思われます。
 1104年(長治元年)、1114年(永久2年)にも、その年に該当するような事件は見当たりません。

伝説と史実とが入り混じる生涯の記録
 1125年(元治2年)、三浦義明34歳のときに長男杉本太郎義宗が生まれます。さらに1127年(大治2年)、次男の三浦義澄が生まれます。
 『吾妻鏡』によると、1209年(承元3年)12月15日、三浦義明の孫の三浦兵衛尉義村が、「我が三浦家は祖父義明の天治以来、相模国の雑事に関わってきた」と述べています。
 このことから、三浦義明は三浦氏を称して、世襲の官である大介を号し、天治年間(1124年〜1126年)以来、相模国の在庁官人として国務に参画していたと、現在発売されている数々の本では記載されています。しかし、「大介」の称は三浦氏の「世襲の官」ではありません。

三浦半島の歴史:人物事典・杉本義宗
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武家の時代へと変貌していく
 国務にたずさわる在庁官人らは、国衙権力(こくがけんりょく)の衰退とともに、次第に武家の権力の下に吸収されていきます。在庁官人でありながら武家の勢力下に組み込まれるものもあり、三浦義明は在庁官人の身分を離れ源義朝の指揮下に入ります。
 1144年(天養元年)10月21日、三浦義明による大庭御厨侵犯事件(おおばのみくりやしんぱんじけん)が起こります。御厨内への侵入者は「源頼清ならびに、在庁官人、及び義朝の名代清大夫安行、三浦庄司平吉次男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎同助弘、所従千余騎」と書かれています。当時、吉明は53歳で吉次は78歳だったので、吉次は侵入に加わるのは難しい年齢だったと思われます。

三浦半島の歴史:人物事典・源義朝

畠山重忠挙兵
畠山重忠
畠山重忠
 1180年(治承4年)8月、武蔵国畠山次郎重忠が、衣笠城攻略のために挙兵します。畠山重忠は、河越次郎重頼に秩父党と引き連れて合流するよう命令を出します。
 畠山氏は秩父家の長男の系統になりますが、家督は継ぎませんでした。家督を継いだのは次男の河越氏でした。河越重頼は秩父家の惣領の象徴ともいえる「武蔵国留守所惣検校職」という肩書きをもち、秩父党の党首として畠山氏を含む秩父党全般に指揮・統括・管理の権限を持っていました。畠山重忠は畠山一族だけでは兵力不足と考え、秩父党の力を頼みとし、惣領の河越重頼に頼みました。
 河越重頼が畠山重忠に合流するとき、江戸太郎重長も合流しました。江戸重長は、畠山重忠に合流したのではなく、河越重頼に組しました。江戸氏は秩父流四家のひとつで、のちに源頼朝から「武蔵国の棟梁」と言われるほどの有力な勢力でした。
 8月24日、畠山重忠の軍勢と、三浦氏の軍勢とで、由比浦合戦(小坪説もあります)が勃発。8月26日には、河越重頼、江戸重長の援軍も到着しました。

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衣笠城篭城
 三浦氏には、河越重頼勢の援軍が到着したとの知らせがきました。そして急遽、三浦一族は衣笠城に引き篭もることになりました。三浦氏の相手が、畠山氏ではなく、河越氏という大敵になったためだと考えられます。
 『吾妻鏡』によれば、衣笠城籠城の三浦氏方の陣立は以下のようになっています。

東木戸口大手 三浦次郎義澄
      佐原十郎義連(三浦義明の末子)
  西木戸搦め手 和田太郎義盛
      金田大夫頼次(三浦義明の娘婿)
  中陣 長江太郎義景(鎌倉権五郎景政の孫)
      大多和三郎義久(三浦義明の三男)

 攻撃方は、8月26日午前8時ごろ、河越重頼、中山重実、江戸重長、金子、村山、以下数千騎が攻め寄せたとあります。『源平盛衰記』によれば、追手は河越重頼、搦手は畠山重忠とあります。戦闘の慣例からすると、大将が追手(大手)、次将が搦手を担当するので、実質的な大将は河越重頼ということになります。
 戦いが始まって20時間も経つと、三浦氏方は矢種切れとなってしまいます。

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衣笠城落城
衣笠城
衣笠城
 三浦義澄が衣笠城を脱出するとき、三浦義明は有名な言葉を残しています。
 「われ源家累代の家人として、幸いにその貴種最高の秋(とき)に逢うなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛(ぶえい・源頼朝のこと)に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す。汝ら急ぎ退去して、かの存亡を尋ね奉るべし。われひとり城郭に残留し、多軍の勢に模して重頼に見せしめんと云々。」
 超簡単に訳せば、武家の棟梁源頼朝に仕えることに希望を見出し、それを喜びとして、誇りとしています。余名幾ばくもなく、生きているうちに源家再興に尽くす機会に恵まれ喜びに思う。年老いた身ながら、自分の命を投げ打って子孫の手柄とし、所領を確保し、新たな所領を拝領したい。三浦義澄らを脱出させ、城内にはまだ多くの兵がいるように見せかけ、自分一人が城に残る。と、こんな感じだと思います。

三浦半島の歴史:人物事典・源頼朝

三浦義明の最期
 翌日の8月27日、三浦義明はだた一人、河越重頼、江戸重長に討たれます。合戦が始まってからちょうど24時間後、午前8時(辰の刻)ごろのことでした。
 こうして衣笠城は寂しく落城しましたが、その後の三浦一族の繁栄の礎となりました。当時、奴田城、衣笠城がありましたが、どちらも無名の城でしたが、この合戦を機に衣笠城は有名な城となりました。

三浦半島の歴史:衣笠城
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