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三浦一族の出現 |
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三浦一族が、いつから三浦半島に住みつくようになったのかは、わかっていません。
後三年の役を記した『奥州後三年記』には、三浦平太郎為次(為継・ためつぐ)の名があります。この時すでに、三浦半島に館を構えていたものと思われます。
為継の子、義継(よしつぐ)、さらに義明(よしあき)の代になると、三浦一族の力は三浦半島では不動のものとなっていました。
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明 |
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鎌倉幕府では要職に就く |
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平治の乱で破れた源氏の源頼朝が、石橋山で源氏再興の旗揚げをします。三浦一族はいち早くそれに加わりました。その初戦では、本拠地であった衣笠城は攻め落とされ、三浦義明は城と共に命を落としました。
しかし、鎌倉幕府が成立するころには、執権北条氏と共に、鎌倉幕府を支える有力御家人の地位を獲得し、その力を存分に発揮していました。 |
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北条氏との権力争いに破れる |
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三浦一族は、三浦半島の各所に城や館を築き、力を貯えていました。その力が大きくなり、北条家からは疎ましく思われるようになり、ついには戦となりました。
和田の乱、宝治の乱で北条氏との権力争いに破れ、三浦一族の本流は滅びてしまいます。わずかに、北条氏と姻戚関係にあった佐原氏のみが滅亡をまぬがれます。
三浦半島の歴史:1213年・和田義盛の乱 |
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南北朝時代・室町時代 |
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南北朝時代、室町時代には、三浦一族は相模国の守護などをして鎌倉府を支えます。この時代の三浦一族の領地は、三浦半島南部だったとされています。 |
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戦国時代 |
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戦国時代に入ると、小田原城を本拠地とする後北条氏が台頭してきました。
後北条氏は、三浦一族をけん制するために、鎌倉に玉縄城を築きます。1516年(永正13年)、後北条氏は三浦市油壺の新井城を攻め落とし、三浦道寸父子は討ち死にし、三浦一族は滅亡しました。
三浦半島の歴史:三浦市三崎町小網代の史跡巡り |
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三浦一族の流れを組む者たち |
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下記の略系図を見てもわかるとおり、嫡流以外は三浦姓を名乗らず、自分の領地の地名を苗字としていました。その結果、嫡流以外でも歴史上たくさんの三浦一族の流れを汲む人物が存在します。
また、三浦一族は桓武天皇の流れを汲むとされていますが、実際には三浦半島に住み着いていた豪族で、関わりがないようです。初代三浦姓の三浦為道も伝説上の人物ではないかとの説もあります。
嫡流以外の三浦一族の流れを汲む人々は、安西氏、宮沢氏、平子氏、津久井氏、蘆名氏、岡崎氏、杉本氏、和田氏、大多和氏、多々良氏、佐久間氏、長井氏、杜氏、佐原氏、正木氏などが存在します。 |