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東京湾口航路事務所


東京湾口航路事務所

京急県立大学駅下車 徒歩13分
地図
東京湾口航路事務所
東京湾口航路事務所

 国土交通省関東地方整備局「東京湾口航路事務所」です。
 入ってもいいのかなーとビクビクしんがら入ったら、愛想の良い人が出てきて「どうぞ」と案内してくれました。館内での写真撮影も許可していただきました。とても優しい人だったー。
 東京湾口航路事務所には、東京湾口航路展示室が併設されています。開館時間は9:00〜16:30です。土日祝日は休館日となっています。
 東京湾口航路の航路管理者として、航路内の異常を把握するための監視パトロールや航路水深の確認など、航路を安全かつ安心して航行できるよう保全・管理を実施しています。
 東京湾ではたくさんの種類の船舶が活躍しています。
 大型船の入港・出航を手伝う畝。タグボートは大型船の離岸・接岸を手助けしたり、推進機関を持たないはしけや台船を曳航するために使用される船です。パイロット艇は、大型船の入港・出航の指導をするパイロット(水先案内人)を本船まで運ぶ船です。
 海上の掃除をする船。清掃兼油回収船は、海上に浮いている油とゴミを回収する船です。油回収船は、海上に浮いている油を回収する船です。
 東京湾口航路整備事業で活躍する船もあります。起重機船は、第三海堡撤去工事で、海中のコンクリート構造物を引き上げました。クレーン付き台船は、台船の上に旋回式クレーンを載せた工事船です。掴み機は50t吊りや300t吊りなどがあり、起重機船に取り付けて、海中のコンクリート構造物を引き上げる装置です。グラブ船は、中ノ瀬航路浚渫工事で、海底の浚渫作業をする船です。覆砂船は、海域環境改善を目的に、浚渫した土砂を海底に一定の厚さにまくための船です。警戒船は、工事区域で、工事船舶と航行する船の安全を監視する船です。
 海上の安全と安心のために活躍する船もあります。警察用船舶は、警備にあたる水上のパトカーです。消防船は、海上での火災を消火する船です。
 原油タンカーは、原油を運ぶ専用船です。東京湾に来るもっとも大きな船舶で、全長約330mになります。
 LNG船は、液化天然ガスを運ぶ専用船です。全長約270mになります。
 自動車専用船は、自動車を専用に運ぶ船です。全長約210mになります。
 コンテナ船は、あらゆる貨物を運ぶコンテナを運ぶ船です。最近では大型コンテナ船が多くなり、全長約290mになります。
 客船は何日間も日本中・世界中を旅行するための船です。全長約170mです。
 フェリーは、乗用車・トラック・人を一緒に運ぶ船です。大きさはさまざまですが、全長約170mです。
 巡視船は、海上保安庁の船です。航海の安全を守り、不審な船を取り締まる仕事をしています。全長約130mです。
 護衛艦は、海上自衛隊の艦船です。全長約150mです。
 帆船は、将来、船長や機関長を目指す学生が航海訓練をするための練習船です。全長約110mです。
 潜水艦は、海上自衛隊が所有する潜水艦です。全長約80mです。
 航空母艦は、アメリカ海軍キティーホーク号は、横須賀を母港としていました。航空機が発進・着艦する滑走路があるため、全長は長く約320mになります。
 ちなみにジャンボジェット(B-747)は全長約70mで、それでも潜水艦より小型です。

 Tourist Information & Historic Spot. Tokyo Bay Waterway Office, Heiseicho, Yokosuka City, Kanagawa, Japan.

写真撮影:2008年02月20日

東京湾口航路事務所

京急県立大学駅下車 徒歩13分
東京湾口航路事務所
東京湾口航路事務所

 国土交通省関東地方整備局「東京湾口航路事務所」。 
 この門壁のレンガの一部は、第三海堡から引き揚げた物を使っています。またこの銘板は、工事開始後最初に引き上げられた倉庫の扉の部分を溶かして作成しました。
 東京湾には船舶の航路の安全を守るための、さまざまな施設があります。
 東京湾口航路安全・情報管理センターは、湾口航路整備のために、工事船と航行する船の安全を守るための施設です。
 第二海堡の灯台は、沿岸を航行する船に陸地の遠近・所在・危険箇所などを指示したり、湾口の位置を明示する施設です。
 観音崎に灯台があります。
 東京湾海上交通センターは、東京湾内を航行する船に、航行に必要な情報を提供したり、航行管制を行う施設です。
 横浜港シンボルタワーの信号所は、横浜港へ出入りする船のための信号機です。
 航路標識は、航路・錨地を示す標識です。
 第三海堡の灯台は、第三海堡の所在を船に知らせるための灯台です。現在は撤去されています。
 東京湾には、高潮や波から陸地を守る施設もあります。
 防波堤は、外海の波から港を守る堤防です。
 防潮堤は、高潮時に海水が陸地に侵入するのを防ぐ堤防です。
 護岸は、波や干満差による浸食から陸地を守るための施設です。
三浦半島観光地図:千葉県富津市富津・第二海堡

写真撮影:2008年02月20日

東京湾口航路事務所

京急県立大学駅下車 徒歩13分
東京湾口航路事務所
東京湾口航路事務所

 過去数十万年、氷河の拡大縮小によって海面上昇、低下を繰り返し、東京湾周辺は陸域になったり、外洋と通じる広い海になった時代があったことが分かっています。
 約12万年前の第四紀更新世中期、下総層群堆積時期で、現在より数m海水面が高くなっていました。古東京湾は東の鹿島灘方面に開け、外洋に通じていました。房総半島の南部は島として分布していました。
 約2万年前の第四紀更新世後記、最終氷河期の最寒期には、現在より130m程度海面が低下していました。東京湾は干上がり、現在の東京湾の西側を古東京川が流れていました。
 約6000年前の縄文時代、最終氷河期以降は海水準が上昇し、古東京川とその支流は海面に没し、現在の東京湾の原型が出来上がりました。6000年前は海面上昇のピークにあたり、現在より数m海水準が高く、関東平野の内陸部まで海水が浸入していました。
 6000年以降、海水準はやや低下安定し、大河川河口には三角州や砂洲が形成されました。
 地球史の中でもっとも新しい時代は第四紀(最近の170万年間)と呼ばれ、気候変動が激しい時代です。特にその後半は寒期(氷期)と温暖期(間氷期)が繰り返されていました。海水準変動は氷河の消長により生じると考えられています。
 氷期には氷河が拡大することにより海面低下が生じ、反対に間氷期には氷河が融解することによって海面上昇が生じました。北米やヨーロッパに氷期の際に生じた氷河の痕跡が数多く残っていますし、日本では北アルプスなどの標高の高い山地ではかつての氷河の痕跡が認められます。
 過去十数万年の海面変化曲線によると、12万年〜13万年前、1万5000年前〜現在は、現在よりも海面高度が高く、逆に11万年前〜1万5000年前までは現在より海面高度が低かったことがわかっています。

写真撮影:2008年02月20日

ブイ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
ブイ
ブイ

 東京湾内には、タンカー、コンテナ船、漁船、プレジャーボートなど多種多様な船が毎日数多く航行し、航路も湾内も混雑しています。コンテナ船などの大型化も進んでいます。現在の航路の一部には、大型船舶が通れない水深の浅い場所や、すぐそばに暗礁化した第三海堡があり、航行の障害となっています。このような状況で、東京湾内では多くの海難事故が発生しています。
 東京湾は首都圏の経済社会活動を支える重要な海域で、浦賀水道だけでも1日あたり約760隻の船が通ります。しかもその約7割が、貨物船やタンカーです。航路周辺も含めると、さらに多くの船舶が航行しています。
 船の大型化が進んでおり、大きな船にとって、暗礁化した第三海堡や、浅瀬のある中ノ瀬航路が航行の障害となっています。平成12年には219隻の海難事故が発生しています。プレジャーボートによる事故が165隻、漁船9隻、貨物船22隻、その他が23隻となっています。

写真撮影:2008年02月20日

ブイ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
ブイ
ブイ

 「中ノ瀬浚渫B区」、「東京湾口航路波高計」と書かれてありました。
 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ東インド艦隊のペリー提督率いる艦隊が浦賀に来航し、鎖国をしていた日本に開国をせまりました。
 外国艦隊に脅威を感じた幕府は、江戸にもっとも近い品川の守りを強固するため、休まずに工事を進め2年足らずのうちに5個の台場を造りました。台場工事の完成は、日本の開国と同じ1854年(安政元年)です。
 現在では5個の品川台場のうち、2個の台場が残されています。品川第三台場は、東京臨海副都心のウォーターフロントの公園に整備され、都民や観光客に親しまれています。フジテレビがあるお台場です。

写真撮影:2008年02月20日

ブイ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
ブイ
ブイ

 「第三海堡」と書かれていました。
 開国後、明治政府は東京を守るために、観音崎、猿島、富津などの海岸や島に砲台を建設しました。
 しかしこれだけでは外国の軍艦の侵入を防ぐことができないと考え、東京湾の入り口で封じるため、富津と観音崎の間に海堡を建設することにしました。
 第二海堡を建設し始めた直後の1891年(明治24年)7月、戦艦「鎮遠」、「定遠」を含む清国の北洋海軍6隻の巨艦が日本を威圧するために横浜港に姿を現しました。予想以上に清国の軍艦が大きかったことに危機感を覚えた陸軍は、首都を戦艦から守るため、海堡を建設することに力を注ぎました。

写真撮影:2008年02月20日

ブイ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
ブイ
ブイ

 ブイにもさまざまな種類がありますが、海上で見かけるととても小さく見えるブイも、地上で見ると驚くほど巨大です。モビルアーマーのようです。
 艦船の停泊用のためのブイは、艦船は岸壁に着岸せず、沖のブイの近くに停泊したりする場合があります。かつては大型艦船はほとんどがブイに係留され、小型船で岸と艦とを行き来していました。
 海洋観測を行うブイもあり、沖合いに設置して海洋観測のプラットホームとして使用したり、海流の流れを調査するためにブイが用いられる。
 また障害物や航路を示すためのブイなどがあります。

写真撮影:2008年02月20日

レンガ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
レンガ
レンガ

 実際に第三海堡で建物に使用されていたレンガです。「東京小菅修治監」製造と推測できる「桜」の刻印があります。現在の「小菅刑務所」です。レンガは兵舎などの外壁材として用いられました。積み方は、イギリス積みと呼ばれる方法でした。
 第一海堡・第二海堡のイギリス積みで行われています。猿島の要塞でも同じレンガが使われていますが、フランス積みで作られています。
 横浜市新港地区にある横浜赤レンガ倉庫は、明治期に建設され、横浜港の物流拠点として利用されました。現在は文化施設、商業施設として利用されています。この倉庫のレンガの積み方は、イギリス積みです。
 レンガの積み方は、フランス積みは幕末から明治時代初期に造られた構造物に多く採用されています。イギリス積みは、その後に用いられるようになりました。フランス積みは長手と小口を交互に積むことから外観が美しいのですが、段ごとに小口面と長手面が現れるイギリス積みの方が切りものが少なく経済的でした。フランス積みでは正方形のものが切りものに当たり、レンガを横に半分に割ったものであることから「半ます」と呼ばれます。角に近い部分で縦に半分に割った切りものは「羊かん」と呼ばれます。
 レンガによる構造物は1923年の関東大震災により、構造的な弱さが明らかになり、翌年から構造体としての使用が禁止されました。その後は現在でも、被覆材、化粧材として広く使われ、表面に長手面のみを出す「長手積み」が多く用いられています。
三浦半島観光地図:横須賀市久里浜・うみかぜ公園
三浦半島観光地図:横須賀市猿島・猿島の風景

写真撮影:2008年02月20日

照明弾

京急県立大学駅下車 徒歩13分
照明弾
照明弾

 第三海堡から見つかった照明弾と思われる物。
 第三海堡からは多数の不発弾などが出てきました。今後も出てくる可能性があるので、慎重に工事を進め、安全確保を行う必要があります。発見された場合は、海上自衛隊の協力の共に安全に処理します。
 旧陸軍8cm砲弾、25mm機関砲弾、照明弾、魚雷などが見つかっています。
 大砲は7年式十糎加農砲(10センチカノン砲)です。大正7年に制式を制定された口径105mmの大砲であることから、7年式十糎加農砲と呼ばれています。国産のカノン砲で、最大射程距離は10,500mです。
 五大力船は、江戸湾を中心とする関東近海や河川下流部で活躍した帆船です。江戸時代初期〜昭和初期まで使われ、米・材木・薪・炭などを運搬していました。長さ9.4m〜19.7m、幅2.4m〜5.2mの大きさでした。
 鉄筋コンクリートの大きな函(ケーソン)を浦賀の造船所で作り、その函を海に浮かべて第三海堡まで運びました。函の中に海水を入れて沈め、砂などを詰めて設置しました。函の大きさは長さ約14m、幅約6m、高さ約7mもあります。コンクリートブロックを積み上げる方法と比べ、効率的な方法です。現在でも多くの海洋港湾工事で用いられています。第三海堡に設置した当時の大正2年頃では、最先端の技術でした。
 素潜りの作業員はハンマーやバールを手に、背丈が立つくらいの浅い水深の場所で作業していたと推測されます。
 潜水夫へは、潜水器船からポンプで空気が送られますが、命を預けることになるので、潜水器船の作業員は潜水夫の家族や血縁者が行っていました。潜水夫が作業を行ったのは水深5m程度のところまでだったと考えられ、構造物を設置する時の「均し」を行っていたと推測されています。
 用いられた石は、大きなものでは75kg〜225kg、小さい物でも19kg〜75kgの物を、大7、小3の割合で用いていたことが解明されています。

写真撮影:2008年02月20日

レール

京急県立大学駅下車 徒歩13分
レール
レール

 第三海堡の倉庫A-10に使われていたレールを加工して作られた物です。
 第三海堡は、走水と第二海堡からそれぞれ約2.5km離れた海中に建造されました。約2.5kmという距離は、当時の大砲の射程距離から決定されたものです。大砲の配備を最重要点にして選ばれた第三海堡の建設地は、水深40mと深く、東京湾の中でも特に波浪と潮流が激しい場所でした。また、外海に面しているため、度重なる台風被害にも遭いました。潮流は海の干満によって局地的に起こる海水の流れで、1日2回ずつ、その流れの方向が逆になります。特に東京湾口は潮流が速いので「走水の海」と呼ばれていました。
 海堡工事は大変難しい条件の中で進められたため、1892年(明治25年)の工事開始から1921年(大正10年)の完成まで、30年の歳月がかかりました。
 第三海堡と猿島の大きさを比べると、海上から上の猿島と、水面下の第三海堡の大きさがほぼ同じになります。
 走水港は第三海堡の建設地から近いため、石を積みだす港として使われていました。走水の伊勢山崎(岬状の小山)からたくさんの石を切り出したため、伊勢山崎は元の大きさの3分の1になってしまいました。ほかにも神奈川県足柄下郡真鶴町の採石場、千葉県安房郡鋸南町の鋸山、横須賀市鷹取町の鷹取山から石を切り出しました。
 多くの人と費用をかけ、殉職者も出して作られた第三海堡ですが、完成からわずか2年後の1923年(大正12年)9月1日、関東大地震によって崩壊し、一部が海に沈んでしまいました。

写真撮影:2008年02月20日

京急県立大学駅下車 徒歩13分
瓦

 第三海堡の兵舎に使用されていたと推測される瓦です。
 海堡の作られた場所は海上ですが、担当は陸軍でした。陸軍参謀本部が計画し、築城本部が建設し、要塞司令部が管理しました。東京湾海堡は、山形有朋が参謀本部長時代に具体的な計画や調査が始まりました。お雇い外国人の意見も取り入れ、さまざまな検討の末、海堡建設に着工しました。
 山形有朋は長門国(現在の山口県)出身です。陸軍卿、参謀本部長、内務大臣などの要職を歴任後、明治22年、明治31年の2度にわたり内閣総理大臣に就任しました。元老として政界に君臨しました。日本列島の要所に海岸砲台を築くことを強く推し進めた人物です。1838年6月14日(天保9年4月22日)〜1922年(大正11年)2月1日。
 ミュニエー陸軍大佐は、第二次フランス顧問団の団長(教師首長)として活躍しました。東京湾をはじめ、長崎、淡路、下関、鹿児島などの海岸防御の方策を提案しました。東京湾を防衛するために必要な大砲の数などを詳細に計画しました。明治7年5月〜明治13年5月に在日しています。
 熾仁親王(たるひとしんのう)は皇族で、有栖川宮家9代有栖川宮幟親王の第一王子です。陸軍大将、参謀総長、日清戦争では大本営幕僚長を務めました。第二・第三海堡の建設を最終的に決定したときの陸軍参謀総長でした。1835年3月17日(天保6年2月19日)〜1895年(明治28年)1月15日。
 海堡の計画段階から建設工事までを手掛けたのは、その当時、陸軍少佐の西田明則です。1906年(明治39年)、78歳で亡くなるまでの28年間、海堡建設に従事しました。西田のあとを引き継いだのが陸軍技師の伴宜(ばんよろし)です。
 富津市大乗寺には、殉職者の碑があります。海堡建設には、多くの人々が施工に従事しました。その中では、殉職者も出ています。
 西田明則は山口県出身。明治4年に山形有朋に招聘され兵部省勤務、翌年工兵大尉となりました。建築家として東京鎮台兵営、靖国神社の建設に従事した後、1881年(明治14年)に軍人としては定年になりましたが、その後も技師として晩年まで東京湾海堡工事に従事しました。1828年1月9日(文政10年11月23日)〜1906年(明治39年)5月21日。
 伴宜は福井県出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学工科土木科を卒業後、陸軍技師となります。明治32年〜明治40年まで、第三海堡建設工事の責任者となりました。青島守備軍民政部技師、東京府技師長を務めた後、東京府土木部長に就任しました。1871年(明治4年)12月24日〜1935年(昭和10年)12月14日。

写真撮影:2008年02月20日

東京湾口航路事務所展示品

京急県立大学駅下車 徒歩13分
東京湾口航路事務所展示品
東京湾口航路事務所展示品

 第三海堡から引き揚げられた遺物ですが、詳しいことはわかっていません。
 第三海堡は訓示施設のため、その内容も明らかになっていませんでした。そのために資料が少なく、はっきりとわからないことがとても多くあります。現在、引き上げた遺物から第三海堡がどんな施設であったのか、復元調査を行っているところです。

写真撮影:2008年02月20日

ホースノズルとポンプ

京急県立大学駅下車 徒歩13分
ホースノズルとポンプ
ホースノズルとポンプ

 ホースノズルとポンプですが、何に使われていたのかはわかっていません。おそらくは消火用のための設備だったのでしょう。

写真撮影:2008年02月20日

支払帳

京急県立大学駅下車 徒歩13分
支払帳
支払帳

 永島家文書のひとつ、「常傭職工人夫賃金支払帳」です。1904年(明治37年)3月のものです。
 永島家文書には、1894年(明治27年)〜1920年(大正9年)までの給与支払台帳が残されています。ただし、途中が抜けている年もあります。
 支払帳から海堡工事の工種、賃金単価、作業人数、労働日数がわかりました。


 永島家は代々、庄兵衛を名乗りましたが、海堡建設に従事した永島症兵衛は、幼名を豊太郎と称しました。
 永島家の門は、赤く塗られた門だったので、永島庄兵衛は「田戸の赤門さん」と呼ばれていました。
 横須賀市の永島庄兵衛は、東京湾海堡建設に携わった施工業者のひとりです。永島家は代々、名主の家柄で、江戸時代の台場建設の経験をかわれて、東京湾海堡も請け負いました。永島家では江戸時代からの伝統的技術を生かしながら、千葉県や神奈川県から多数の作業員を集めて教育し、海堡建設工事へ従事させました。第三海堡の建設作業には、千葉県の人々が活躍したことも永島家文書から分かりました。潜水夫も千葉県の人が多く働いていました。当時、潜水器は房総のアワビ漁に使われていたためです。
 永島家が残した永島家文書の中に、第二海堡と第三海堡の施工時の記録が数多くありました。建設従事者の支払帳や出面帳、陸軍省との請負契約書、購入品の元簿、建設従事者の名簿などがありました。明治時代の永島家文書約1,500点のうち、322点の海堡建設関連文書がありました。
 永島家文書を調べることにより、建設従事者の実態、施工技術解明されると考えられています。
三浦半島観光地図:横須賀市安浦町・赤門

写真撮影:2008年02月20日

購買品元簿

京急県立大学駅下車 徒歩13分
購買品元簿
購買品元簿

 永島家文書のひとつ、「購買品元簿」です。1894年(明治27年)5月のものです。
 海堡工事に関連した購買品のリストです。生活王品から工事に使用すると思われる道具まで、特に分類もされずに羅列されています。海堡建設で使用した船の種類、潜水器に必要なゴム服などの道具の価格が分かりました。

名称 員数 単価 小計 上納小計
米洗桶 一個 二十銭 二十銭 金二十五銭
小桶 一個 十二銭 十二銭 金十六銭
片手桶 一個 九銭 九銭 金十二銭
手桶竹編 一個   十二銭 金十七銭
手桶金編 一個   十八銭 金二十五銭
飯櫃 二個 二十三銭 四十六銭 金六十二銭
湯桶 一個 十九銭 十九銭 金二十三銭
大杓子 一個   一銭五厘 金二銭
小杓子 三個   三銭 金四銭五厘
於玉杓子 一個   一銭 金一銭五厘
      一円四十一銭五厘 一円八十八銭
汁椀 五個 四銭 二十銭 金二十五銭
並皿 五枚 三銭 十五銭 金十七銭五厘
小皿 五枚 八厘 四銭 金四銭五厘
十膳 二厘 二銭 金三銭
擂鉢 一個 一銭 十銭 金十三銭
立大瓶 一個 二銭 二十二銭 金二十九銭
擂木 二本 一銭 二銭 金二銭六厘
笊大小 二個 三銭二厘 六銭四厘 金九銭
目笊大小 二個 一銭三厘 二銭六厘 金三銭六厘
竹杓 二本 三銭 六銭 金八銭
      九十銭 一円十五銭二厘
写真撮影:2008年02月20日

領収証

京急県立大学駅下車 徒歩13分
領収証
領収証

 タクシーの領収書と違って、昔の領収書ってとても立派な物なんですねー。筆を使って清書されてるし、印鑑もちゃんとしたものが使われているし。タクシーの領収書なんて感熱紙を使ってるから、半年くらい経つと文字が消えちゃうんだよね(^^;)
 永島家文書のうちのひとつ、潜水器修理料の領収書です。1897年(明治30年)8月17日のものです。
 東京都京橋区築地本郷町の加藤工場から永島庄兵衛宛に出された潜水器、および金物の修理代金の領収証です。この領収証の存在によって、海堡工事で潜水器が使用されていたことがわかりました。
 領収証には、以下のように書かれてありました。

一、金七十三円五十銭也
但し潜水器三品修理料
外に金物二種共
右正に領収候也
明治三十年八月十七日
東京京橋区築地本郷町加藤工場
永島庄兵衛殿

写真撮影:2008年02月20日

電話機

京急県立大学駅下車 徒歩13分
電話機
電話機

 第三海堡から発見された電話機です。スマートフォンですな。

写真撮影:2008年02月20日

第三海堡復元模型

京急県立大学駅下車 徒歩13分
第三海堡復元模型
第三海堡復元模型

 1923年9月1日、関東大震災直後の第三海堡の様子を1/200の規模で再現したジオラマです。大正12年9月9日、横須賀海軍航空隊が撮影した写真などから復元したものです。

写真撮影:2008年02月20日

第三海堡復元模型

京急県立大学駅下車 徒歩13分
第三海堡復元模型
第三海堡復元模型

 東京湾は湾口部が狭く、湾奥ほど広い袋状の形態を示しています。東京湾の推進は0m〜30m程度ですが、湾奥は水深20m以下と浅くなっています。
 海底は平たんな形態を示していますが、湾の西側には南北方向に深い谷が発達しています。この谷はかつての川の跡で、古東京川と呼ばれています。古東京川は湾口部から湾外に向けて急激に水深を増し、湾口からわずか15km程度で水深500mに達します。
 中ノ瀬は湾口部に位置し、水深15m〜20m、長さ8km、幅3kmの南北に細長い浅瀬です。中ノ瀬は、瀬の東側は緩やかに傾いていますが、西側はやや急な傾斜を示すという特徴があります。
 中ノ瀬は、下総〜上総層群形成時(数十万年前)、またはその直後における褶曲運動により形成されました。基盤が沈降することにより上位の被覆層(相模・下総層群など)の凹地ができます。さらに別の場所で沈降が発生します。被覆層に凹地が形成、相対的に沈降しない部分の被覆層が凸状となります。沈降、隆起を繰り返し、被覆層凹地部はさらに沈降し凸部はさらに隆起します。こうして中ノ瀬は形成されました。
地層事典:上総層群
地層事典:相模層群
 南関東から相模湾にかけては、西北西−東南東〜東西方向、北東−南西〜南北方向の2方向に高まりが認められ、特にその2方向の高まりが交差した部分でより高い高まりが生じています。中ノ瀬はその過程で形成された高まりです。この高まりをドーム構造と言い、三浦半島、房総半島で数多く認められる他、相模湾の相模構造線付近の海底においても列状に認められています(三浦海盆列)。
 褶曲構造の沈降側(向斜軸部)が交差した場所ではより深い深まり(沈降盆地)が形成されています。大きないみでは東京湾もこの過程でできた沈降盆地のひとつだるといえます。

写真撮影:2008年02月20日

第三海堡復元模型

京急県立大学駅下車 徒歩13分
第三海堡復元模型
第三海堡復元模型
 中ノ瀬地盤の地質を調べるため、ボーリング調査を行いました。
 中ノ瀬において海底地盤面(標高-17m:浚渫前)より深度37mまで地層の連続コアリング(ボーリング)を行いました。ボーリング調査の目的は、中ノ瀬がいつどのように形成されたのかを明らかにすることです。この調査では、調査の目的を達成するために、ボーリングコア中に含まれている資料を採取・分析し、房総半島や三浦半島の地質と地質対比を行いました。
 ボーリングコアを構成している地質は、大半が固結〜半固結したシルトおよび砂から構成されています。全体的には細粒でしたが、深度20m付近には2m程度の礫層を挟みます。
 ボーリングコアから得られた試料を分析し、分析結果全体を対比しました。分析した試料は、貝化石、花粉化石、珪藻、全硫黄、ナンノ化石、有孔虫、テフラ(火山灰)、古地磁気などです。それぞれの分析結果から得られたデータは、非常に良く一致し信頼性の高いデータを得ることができました。
 東京湾奥部で認められる厚い被覆層は分布せず、約20万年前より古い下総層群(相模層群)に相当する地層が厚く分布していました。深度20m付近の礫層を境に地層の層序が異なり、上部は下総層群の清川層、下部は同じく下総層群の地蔵堂層に対比されます。
 テフラ(火山灰)は、火山ガラスの屈折率および鉱物組成(輝石、角閃石など)を測定し、既存のテフラデータと対比することによりテフラの同定を行います。国内には火山が多く分布しており、過去数十万年間のテフラの層位関係と絶対年代との対応がとられています。
 ナンノ化石は、試料を顕微鏡を用いて検鏡を行い、検鏡された化石の個数をカウントします。新生代には58のナンノ化石帯が設定されており、各帯の境界は絶対年代が得られています。検鏡して同定された化石をこれらの化石帯と対比することにより絶対年代を得る方法です。
 古地磁気は、一般に採取試料はその堆積当時の磁気を帯びています。既存の研究により、地球は絶えず磁場が変化していることが知られており、過去数十万年間の詳細な磁場の変化曲線とその絶対年代が得られています。ボーリングコアの古地磁気の測定を行うことにより、磁場の変化曲線との対応を得ることができ、絶対年代を得ることができます。
 貝化石ではマユツクリガイ、マガキ、ビノスガイモドキ、コベルトフネガイなどの化石が見つかっています。花粉化石では、ツガ属、スギ属、ブナ属、サルスベリ属、カバノキ属、ハンノキ属、トウヒ属。珪藻化石では、海水域に分布する化石や海水〜汽水域に生息する化石が発見されています。
身近な貝殻図鑑:コベルトフネガイ
身近な貝殻図鑑:コベルトフネガイ
身近な植物図鑑:スギ科
身近な植物図鑑:ブナ科
身近な植物図鑑:ミソハギ科
写真撮影:2008年02月20日
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