鎌倉市長谷の主馬盛久の頸座

鎌倉市

主馬八郎左衛門盛久(しゅめはちろうざえもんもりひさ)の頸座(くびざ)です。謡曲「盛久」、蘭曲「東国下」に謡われる謡蹟でもあります。
主馬盛久は平盛久とも呼ばれています。
数基の石碑が建てられています。

代々平家に仕えてきた主馬盛国(しゅめもりくに)の末子、主馬八郎左衛門盛久は源頼朝のお尋ね者で、捕らえられこの地で殺されそうになった敷皮跡(しきかわあと)とも言われています。

主馬盛久は壇ノ浦の戦いで平氏が滅び源氏の世となり京都に隠棲し、等身大の千手観音像を作成しました。そして、清水寺の本尊の脇に安置し、千日参りで平氏一族の冥福を祈っていました。
そのころ、北条時政は源頼朝に主馬盛久を探し出すように命じられていました。とある女性から毎晩お参りに訪れる者がいるとの情報を聞き、家臣に命じて主馬盛久を捕らえて鎌倉に護送しました。
1186年(文治2年)、平家の家臣だったため由比ガ浜にて斬首されることになり、敷皮を敷きました。主馬盛久は西に向かって10回、南に向かって20回、念仏を唱えると、役人が振りかざした刀が折れてしまいます。さらに、富士山の裾の方から二筋の光が差し、主馬盛久に当たりました。源頼朝は夢のお告げで、清水寺近くに住む僧侶から主馬盛久の命を助けて欲しいと訴えがありました。
これらのことから、主馬盛久の斬首は行わず、紀伊(和歌山県)に領地を与えたと言われています。また、壇ノ浦の戦い後、屋久島に逃れたとも伝えられています。屋久島には盛久神社があります。

鎌倉駅から鎌倉文学館へと向かう途中に立っていた石造物群。ほとんどの人が素通りして行ってしまう史跡です。
史跡の説明の立て札1コ、鎌倉市内で良く見かける石碑1コ、木の下に小さな石碑1コ。どれも案内板ではあるものの、どれもこれも読みづらい・・・
そもそも、主馬盛久って誰やねん(^^;)

庚申塔も何基が建てられていました。
三浦市・横須賀市には庚申塔がとても多いですが、鎌倉市にも多いですねー。いつ頃に建てられたのか気にはなるんだけど、調べるのが面倒くちゃいというかなんというか・・・(^^;)

鎌倉各地に建てられている鎌倉青年団による立派な石碑。
鎌倉青年団が建てたこの手の石碑って、鎌倉の歴史的価値をぐっと引き上げてくれていますよね。この石碑を回る人もいるくらいだし。けど、史実とは異なってしまうこともあるみたいです。
史実はどうあれ、僕は大好きな石碑ですけどね。

今にも倒れそうな小さな石碑。ケヤキの成長に押し倒されてしまいそうです。
1919年(大正8年)に建てられた石碑なので、100年もの時間が経過しているわけで。その当時のケヤキはこんなにも大きく育っていなかったんじゃないでしょうか。100年という歴史を感じさせますね。

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