久里浜港の東京湾フェリー発着場の近くにあります。くりはま花の国の大きな駐車場の近くにもなります。
アクセスはバス停久里浜港下車徒歩5分くらいでしょうか。細い路地を入って行った先にあり、わかりづらい場所になります。久里浜駅からだと徒歩25分くらいかかってしまうかな。境内の門を入ったところに駐車場があります。
なぜこんな細い住宅地の路地を入った場所にあるのかなっていうのが長年の謎でもあります。神社やお寺ってわかりやすい場所に建っていることが多い印象があるので。それにこの辺りは埋め立てによって造成された場所だと思っていたので。
私は霊感体質ではありませんが、ここを訪れるとなぜか体調が悪くなることが多いです。
由緒
山号は明星山、院号は西生院、寺号は伝福寺といいます。院号はあまり使われないですね。
浄土宗の寺院で、本尊は釈迦如来です。
開山は1537年(天文6年)8月26日、昌誉能公と伝えられています。鎌倉の延命寺の開山と同じ人物のようです。創建は1533年(天文2年)と伝えられています。
本堂は1855年(安政2年)に建てられたものです。
三浦観音札所の第12番になっており、千手観音菩薩像が安置されています。もともとは別の場所に観音堂が建てられていましたが、1923年(大正12年)の関東大震災によって倒壊してしまったので、伝福寺に移されました。高さ約40cmほど。
写真
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入り口(2019年06月13日撮影)
細い路地をクネクネを進んでいった先にあるお寺。
普通は旧道沿いにあると思うのですが、住宅地の奥の方にあるのでわかりづらいです。スマホ地図を見ながら進んだのに、正しくたどり着けませんでした(^^;)
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灯籠(2019年06月13日撮影)
伝福寺には本堂と地蔵堂があります。この銅製の灯籠は地蔵堂にある灯籠です。立派だったので写真を撮りました。
本堂前にある石製の灯籠もとても立派なものでした。
整然としていて綺麗な寺院という印象です。
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本堂(2019年06月13日撮影)
大きな屋根が特徴の本堂です。
江戸時代末期に建てられたものだそうです。その当時はここは陸地だったということがわかりますが、砂が堆積した海岸沿いだったのではないかと思います。もう少し高台に建っていても良さそうな気がしますが。
砂村新左衛門による内川新田開発によって安定した陸地になったのか、それ以前から陸地だったのかはわかりません。海抜はかなり低そうです。
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灯籠(2019年06月13日撮影)
大型で彫刻も良く出来た立派な石製灯籠です。
ここまで手の込んだ彫刻を江戸時代などに造ることはできないと思うので、昭和時代か平成時代に造られた新しいものだと思います。歴史は感じられませんが、立派なもんだなーって感心します。
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本堂(2019年06月13日撮影)
やっぱり寺院は木造がいいですねー。
新しく造られた鉄筋コンクリート造の寺院もありますが、やっぱり木造がいい!!
なぜだろうか、鉄筋コンクリート造の寺院に参拝しようという気持ちは湧いてこないんですよねー。無機質な感じがしてしまって・・・
信仰の対象としては木造でもコンクリート造でも同じはずなんですが。
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本堂(2019年06月13日撮影)
扁額はなく提灯が飾られています。
それほど多くはありませんが千社札も貼られています。近くの住吉神社に比べて少ないのは、わかりづらい場所にある寺院なので遠くから訪れた人は見付けられなかったのかな。きっとスマホのない時代に貼られたものだと思うし。
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地蔵堂(2019年06月13日撮影)
こちらは地蔵堂です。本堂の造りもいいもんだなーって思いましたが、こちらもいいですねー。ただ、何がどういいのかっていうのは感覚的なものなので表現が難しいですが・・・
建築の専門家ならどこがどうこうってうんちくを述べられるんだろうけど、私が述べられるのはうんちくらいなもので・・・
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地蔵堂(2019年06月13日撮影)
地蔵堂の建物内には、たぶん地蔵がいるんだと思います。
覗き込めば見えるのかも、扉が格子状になっているのでそこにカメラのレンズをねじ込めば写真も撮れるかなって思うのですが。自分以外にも人がいたのでそこまでできませんでした(^^;)
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慰霊碑(2019年06月13日撮影)
支那事変と大東亜戦争の慰霊碑です。
諸説ありますが1937年(昭和12年)に始まった中国との大規模戦闘が支那事変と呼ばれています。解決されぬまま1941年(昭和16年)12月8日から大東亜戦争が始まります。支那事変から始まる中国との戦闘を日中戦争とすることもあり、人によって呼び方が異なります。学閥によるっていうのかな?
1956年(昭和31年)9月23日、地元の有志のよって建てられ長谷川勝恵、榎本庄蔵、鈴木初蔵、平井福蔵、梅沢源蔵、榎本真、宮下松太郎の名前が見えます。地元に多い苗字ばかりです。
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地蔵(2019年06月13日撮影)
地蔵堂じゃないんだけど、地蔵の石仏がいっぱいの小屋。手前の石仏は地蔵じゃなくて観音菩薩かな?
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地蔵(2019年06月13日撮影)
小屋の中を覗き込むといろんな石仏がいっぱいありました。
小屋の中に安置される石仏と、屋外に置かれている石仏、どのような違いがあるのかはわかりませんが。もし私が石仏だったら、雨風がしのげる小屋の中の方がいいです。できれば冷暖房完備で。三食昼寝付き希望!!
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観音菩薩(2019年06月13日撮影)
こちらの大きな石仏は観音菩薩像だと思います。立派ですよね。
石材屋さんとの繋がりが豊富なのでしょうか、石関係が立派なんですよねー。でも・・・
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石仏群(2019年06月13日撮影)
たくさんの石仏が並べられています。
こういった石仏はすべてお墓です。長い年月が経過して無縁になってしまったのでしょう、境内の一角に集められていました。
寺院によっては階段や石垣に使われることもありますが、こういった形の墓石は再利用も難しいですねー。なんだか悲しそうに見えてしまいます。
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汽船早丸の碑(2019年06月13日撮影)
徳川埋蔵金伝説も存在する汽船早丸遭難者追討の碑です。赤城山の徳川埋蔵金が有名ですが、こちらの方が有力だとも言われています。
1936年(昭和11年)、蒸気船早丸の遺族が建立しました。
1869年(明治2年)年の夜半、嵐に乗じて密かに横浜港を出港した蒸気船です。目的地は上海とされ、乗組員は外国人を含め約80人。しかし、船が久里浜沖の海鹿島にさしかかったとき、暗礁に乗り上げ沈没してしまいました。
船倉には、当時の国際的通貨であったメキシコ銀が6万ドル、伊予別子銅山産のなまこ銅140万匁、青銅器40万匁、仙台藩の53万両、越後藩の黄金の灯籠、幕府御用金400万両、その他毛織物、生糸、小銃弾薬などが隠されていたといいます。
その後、「浜には生糸が流れ着いた」とか、「海鹿島の南側は、確かに船のようなものが沈んでいて、今でも網がよく引っかかる」という漁師たちの伝聞を手がかりに、多くの人が埋蔵金伝説の夢を追いました。
実際に調査を行ったこともありましたが、まだ徳川埋蔵金は発見されていないようです。
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墓地(2010年03月27日撮影)
少し離れた場所にある伝福寺の墓地です。神明第2公園のすぐ近くにあります。
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墓石(2010年03月27日撮影)
ここにも無縁仏となってしまった墓石が積まれていました。
たぶん廃棄物業者に依頼して処分してもらうんだとは思います。供養してから処分しているんだろうけど、現実は寂しいものだなーって思います。
伝福寺裏遺跡
由緒
伝福寺裏遺跡
伝福寺の裏手にある遺跡です。
1981年(昭和56年)、発掘調査が行われ地下約4mの砂地から縄文時代前期末~中期初頭(約6000年前~約5000年前)のものと考えられる丸木舟が発見されました。
この遺跡からは多くの植物化石(材、根、果実、種子)やクジラの骨なども発見され、出土遺物は横須賀市自然人文博物館に保存されており、一部は展示されています。
丸木舟
長さ約304cm、残っている部分の幅37.5cm、最大厚26cmあります。弥生時代以降で出土する田舟を除けば、出土している丸木舟としては日本最小になります。もっとも大きなものは滋賀県元水茎遺跡の丸木舟で709cmもあり、伝福寺裏遺跡の丸木舟がいかに小型であるかがわかります。
舟底には焦げ跡が残っていることから、伐採してきた丸太を火で焦がし、炭化したところを石器で削り、それを繰り返して一本の丸太から一隻の船を作り出したと考えられます。舟の製作に工夫は見えますが、鉄のない時代に石器だけで丸木舟を造るには大変な労力を費やしたことが想像できます。
材は周辺の森に茂っていたムクノキを使っています。幹が太く直線的に伸び、組織が緻密で水に強い性格から、当時の久里浜周辺の樹木の中でも丸木舟に適した樹木だったと考えられます。目的にあった材の選択は、縄文人の自然に対する知識の深さの一端を示しています。
写真
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丸木舟(2013年9月13日撮影)
横須賀市自然人文博物館に展示されているムクノキ製の丸木舟です。
発見された縄文時代の丸木舟としては最小のものになりますが、それでも長さ3mもります。
ムクノキは現在は関東地方以西に分布しています。やや温暖な地域に生える落葉広葉樹です。三浦半島ではめずらしい樹木ですが、縄文時代の頃は現在よりも気候が温暖で普通に生えていたのかもしれません。
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